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松田美佐氏の『うわさとは何か』を読む

▼インターネット時代の民主主義を考える時、松田美佐氏の『うわさとは何か』(中公新書、2014年)は基本文献の一つである。

「うわさ大全」ともいうべき良書。「第6章 ネット社会のうわさーー2010年代の光景」に、「うわさとつきあい続けるために」という小見出しがある。(230頁)

本書の「はじめに」に〈これからの社会での情報とのつきあいかたについて考えていきたい〉とあり、キーワードは「つきあう」だ。「うわさ」や「情報」を、私たちは生きている限り、拒否できない。つきあい続けなければならない。2010年代だけでなく、2020年代もそうだろう。もしかしたら、死んだ後も。「情報とは、つきあい続けねばならない」「うわさとは、つきあっていくしかない」という基本的な認識、了解が、本書の眼目である。

▼情報、うわさは、思わぬ味方にもなるし、思わぬ敵にもなる。この文章を読んでいる人のなかに、一度もネット情報に惑わされたことがないという人は少ないだろう。逆に、常に騙されるという人も少ないだろう。では、どうつきあうのが賢いのか。いかにつきあうべきか。『うわさとは何か』は、さまざまな局面を例にとり、歴史を振り返り、この難問を突き詰めて考えた一冊だ。松田氏の結論は〈あいまいさへの「耐性」〉を鍛える、というものだ。結論部分を引用しておく。

〈リスクについて政府やマスメディアなど制度的チャンネルからの十分な情報の提供はもちろん必須である。その上で、その情報を受け取る私たち一人ひとりには、安全か危険かどちらかに判定できるという前提で結論を求めるというような姿勢ではなく、基本的にリスクは灰色のグラデーションであるとの前提のもと、灰色の濃さを判断する情報を一緒に求める姿勢が必要であると考えるのだ。

 ゆえに、あいまいさへの「耐性」を持つこととは、黙ってあいまいさに耐えることではない。そうではなく、あいまいさを避けるために安易に結論に飛びつくことを批判するのである。あいまいさに耐えつつ、長期的にあいまいさを低減させるために、さまざまな情報に継続的に接触していく必要性がある。

 あいまいな状況をあいまいであるまま受け入れつつ、少しずつあいまいさを減らしていくことーーあいまいさに対する「耐性」を持つことは、風評被害対策としても、うわさ対策としても重要であろう。

 そのために必要なのは、被害を受けた人びとはたまたま巻き込まれただけであり、被害を受けたのは自分だったかもしれないという想像力である。たとえば、東日本大震災についてであれば、そう想像することで、地震や津波の被災者はもちろん、原発事故により被害を受けている人びとへの共感が長続きし、この「先行きが見通せない」災害を主体的に引き受ける意思を強く持つことができると考える。「気の毒な風評被害」ではなく、「わがこととしての風評被害」と捉え、一人ひとりが行う推測や解釈、判断が、風評被害対策として一番効果的であると強調したい。〉(242ー243頁)

▼これは、繰り返し熟読したい文章だ。とくに「あいまいさを避けるために安易に結論に飛びつくことを批判する」という処方箋は、目から鱗だった。

白か黒か。敵か味方か。厳格な二分法は人間の生活にそぐわない。しかし、アタマは勝手に二分法を進めてしまう。不安な時や、「あいまい」な状況が続くと、ついつい白黒をはっきりさせたくなる。

「あいまいさへの耐性」。至言だが、身につけるのは難しい。

(2018年11月14日)

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