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無常に安堵する日本人の感性構造

「古ければ古い程良い。」
建築に対するこの命題は、断言こそ出来ないが、
日本人ならば感覚的に理解し得ることを期待する。

数年前、一部改修後に訪れた清水寺は、どうも興醒めで、
塗装された所為か、綺麗で、故に抑揚に乏しいのであった。

それは、僕の感性の受容体の濾過装置が、
以前のそれと変貌していた為なのかもしれない。

初めてそれを訪れたのは、小学生の頃、修学の一行に塗れてのことだった。
壮大に岩壁に聳える遺産は、僕を圧倒した。
当時、人を圧倒する歴史に刻された思想に対抗し得る手段を持たなかったであろう。
其れ処か、人為的な付加価値を、遺産そのものの価値として受容していたと思う。

だが、嘗て僕を圧倒したそれは、幾分の歳月を経て再訪するに、
何処か驕矜とした様相が、僕の心象に描かれたのであった。
そこに「美」というものはなく、
「beauty」と賛辞を呈すべき対象が、堂々たる様を据えていた。
其の時覚えたものと言えば、驕り高ぶった人に対するそれに等しい。

僕は、日本の美学には疎い。
しかし、日本で生まれ育ってきた以上、
日本的なものに触れる機会に相応して、
「日本人の感性」というものを持ち合わせている、と信じている。
衣食住を西洋式に殆ど浸食された環境に於いて尚、
皮肉的にも、日本以上に日本的である処など存在しない。
故に、日本を最も感じられる処で育ち、
その中で、自我なり感性なりを成熟させてきた。

その感性が
建築物は「古ければ古い程良い。」
という回答を示している。

一切の検証を経ていないものの、
僕は、これが日本の美学として然るべきではないかと思う。

建築が年季を帯びるに従って、
木材が愈々水気を失って、痩せ細り、益々陰翳を顕彰にする。
何時ぞ崩壊を見せるやも知れぬ、触れれば朽ちるかのような様相が、
刹那を感じさせ、無常感を与える。

自身の変貌が、悉皆の無常と照応される時に、
安堵を覚えるのが、日本人独特の感性であると思う。
人間は総じて、自らが変化していくことに不安を感じ、過去に縋りたくなる生物だと帰納するが、
それが一切衆生に於いて働く原理なのだと知覚し、
共感を懐くことによって、安堵を覚えるのである。
そして、自らが刹那に現在していることを覚り、雄大な時空に抱擁されるのである。

感覚に依る帰結になるが、
我々が古い木造建築にある種の落着きを感ずるのには、日本人の感性にこういう仕組があるからだと思う。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』を読んで、追憶を辿る。

以上、失礼致しました。

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