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【読書】きらきらひかる 江國香織

こういう結婚があってもいいはずだ、と思った。なんにも求めない、なんにも望まない。なんにもなくさない、なんにもこわくない。

 「きらきらひかる」……。なんともフワフワしたタイトルで内容が想像できないまま手にとった一冊。よみ終わると、あぁこのタイトルがピッタリだなと感じました。早速、感想を書いてゆきたいと思います。

あらすじ

 笑子と睦月は結婚してから、10日の新婚ほやほや。笑子はイタリア語の翻訳をアルバイト程度にこなしており、睦月は内科医というごくありふれた夫婦だった。しかし、お見合いで結婚した二人には複雑な背景がある。
 夫の睦月はホモだった。長年付き合っている恋人、「紺」との関係は継続中である。笑子との間にセックスはなく、キスもない事を同意している。二人は恋人を持つことが許されている夫婦である。また、笑子は、情緒不安定のため精神病院に通っていたこともあり、アル中をこじらせている。
 それでも、問題なく過ごしていた二人だったが、子供を持たせようとする親たちや、友人との衝突で二人の関係に暗い影がさされてゆく。
 紺との別れを迫られる睦月を思い、何とか関係を存続できるように奮闘する笑子。家族や友人との関係を傷つけてまで、これまでを守ろうとする笑子を守ろうとする睦月がすれ違いながらも、二人の答えを模索してゆく恋愛小説。

同性愛者で潔癖で善良な睦月

目をさますと、睦月はもう台所にいた。-私がそれを食べているあいだに、睦月は部屋の温度が一定になるようにエアコンをセットし、BGMを選んでくれるのだ。

 ホモとアル中の夫婦はである自分たちを、笑子は「すねに傷持つ者同士」と語っている。それにもかかわらず、二人の毎日は、きらきらと輝くような生活にあふれています。

 睦月は情緒不安定な笑子に、変に気を使うことなく優しく接してくれる。潔癖な睦月は、家事もほとんどを好きでこなしてくれて、料理までしてくれる。しかし、そんな何でもしてくれる睦月にどっぷりと甘えられる笑子でもなく、自分がどんどんみじめになってしまう。そんな歪さを抱えながらも、幸せに満ちた新婚生活がしばらく続いていきます。

可笑しくて情緒不安定な笑子

紺のくれた鉢植えに冷めた紅茶を注ぎー笑子は、この植木が紅茶党だと信じている。紅茶をやると、嬉しそうに葉をふるわせるというのだ。

 紅茶を鉢植えにあげている女の子を想像しただけでクスッと笑ってしまいます。それ以外にも、壁にかかった絵画のおじさんに歌ってあげたり、(おじさんは自分の歌が好きだと笑子は信じている)金魚を風呂で泳がせてみたりと、幼くて純粋な笑子の人柄が可笑しくて笑ってしまいます。

 感情の浮き沈みが激しく、号泣したり、興奮してモノを投げる笑子。はたからみれば典型的な心の病を持つ人のように見えますが、睦月は違った見方をしている。異常だと見るのではなく、笑子らしさとして捉えて見守る……そんなもろさを含んだ二人の姿が鮮明に描写が一定のリズムで繰り返します。

私は、世の中というのはまったくよくできていない、と思った。都会の空にこそ星が必要で、睦月のような人にこそ女が必要なのに。私みたいな女じゃなくて、もっとやさしくてちゃんとした女が。

 睦月には同性の恋人がいる。だからといって、笑子を愛していない訳じゃない。むしろ、十分すぎるほど愛してくれている。だから、それ以上を求めることなんてできない。そんな苦しみを笑子はずっと抱えています。優しさに酔って、優しさを押し付ける、それは残酷なのではないでしょうか。

四六時中一緒にいたいなんて思うほど、私は、愛情というものを信用していない

 愛情というものに、妄信的ではない。だから、夫に恋人がいることも許せるのだと思います。「自分だけが愛されたい」とは思ってなく、睦月が求める愛が自分以外にあるならば、それすら認める。

 笑子はなんて優しいだろう。そう感じました。睦月のような、目に見える優しさとは違った種類の優しさ……その描かれ方がとても素敵だと思います。愛情を信用しないことが、人を愛することにつながる。傷つきながらも、そこから目を背けない笑子は異常なんかではないと思うのです。千差万別のはずである、愛のカタチを押し付ける人こそ異常なのではないでしょうか。

誠実、ということが、睦月にはおそろしく大事なことらしい。誠実であるためなら、かれはどんな犠牲も厭わない。-おかげで私は睦月のぶんまでどんどん不誠実になってゆく。-私は、睦月と二人の生活を守りたいだけなのだ。 

 笑子は睦月が大切にしている恋人の紺君との関係を守ってあげくて、睦月は笑子の両親との絆や、笑子の友人との関係を守ってあげたいと思っている。二人がお互いのことを守り合おうと、少しずつちぐはぐにすれ違っていってしまいます。

 サンテグジュペリの「愛というのは、お互いに相手の顔を眺め合ってうることなのではなくて、同じ方向に二人で一緒に目を向けること」という言葉を思い出しました。笑子も睦月も自分のことは二の次にお互いの幸せを願っている。だから、読んでると二人が深く愛しあってるのに、すれ違うさまがもどかしくてたまらなくなってしまいます。当事者であるときは、不思議と分からなくなってしまうものなのですね。

睦月はほんとうのことを言うのをこわがらない。勿論私はそれが死ぬほどこわくて、言葉なんてほんとのことを言うためのものじゃないと思っているのだ。

 「正直になればいいんじゃん」「素直になりなよ」と言われたときの恐怖には共感できることがたくさんありました。正直物がいて、天邪鬼がいる。例え、良心から出た言葉だとしても、受け取る側にはこの上なく辛いものにもなる。だから、ぼくは睦月がちょっぴり嫌いです……。家事も仕事も完璧にこなして、自分にも優しくしてくれる。そんな人といたら息苦しくなってしまうから。

 正直であるがゆえに、妥協ができない。その矛盾を押し付けられるのは笑子なんです。絵のおじさんに歌いかけてみたり、金魚を風呂で泳がすような、笑子が、両親相手に上手く立ち回って、睦月の恋人の紺まで助けてしまう。江國さんの作品に出てくる女の人は、みんなもろくて強い面を持ち合わせてるんだと感じます。みんなどこか足りなかったり、穴が開いていたりする。

 けど、そんな人たちの等身大の姿が、僕を作品へ引き込むのです。きっと誰もが恥ずかしいと、押し込めている、その人らしさが惜しげもなく描かれているからなんだろうと推測しております。

まとめ

 同性愛の夫には恋人がいる。妻である私はアル中で情緒不安定。なのに、突拍子という感覚は一切起こりませんでした。なぜなら、笑子と睦月の生活には、二人にとって等身大の、ありのままの生活や喜び・悲しみ​に溢れていたからです。

 もしかしたら、LGBTという社会的側面を主題と受け取る人もいるかもしません。でも、ここにあったのは、二人の生活であって、それ以上のものも、それ以下のものもありませんでした。日常の些細なことにぶつかって、二人が二人らしく生きていくにはどうすればいいか、必死に模索する二人の姿がある。それが、どこまでも完結しているかのように感じるのです。

 また、「愛」だとか「愛情」に対して「こうあるべき」という信念じみたものがない二人の苦悩が美しいと感じました。よくよく考えていれば、「現実に折り合いをつける」っておかしな言葉だなぁと思うのです。だって、他人には決して見えない夫婦の現実があって、その夫婦にすら見えない、お互いの現実があるわけだから。

 というわけで、笑子ちゃんも意見に賛同して締めくくりたいと思います。

こういう結婚があってもいいはずだ、と思った。なんにも求めない、なんにも望まない。なんにもなくさない、なんにもこわくない。

そんな結婚があってもいいと、僕も思いました……


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