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【読書】 絵のない絵本 アンデルセン

最高純度の文学は絵の中に、景色の中に

「さぁ絵にしてごらん、話してあげたことを」はじめての晩、月はそういった。 

 童話作家として、不動の名声を誇るアンデルセンは、「なぜ子供のための本ばかりを書くのですか?」と問われ、「大人のために書いているものを子供に読んでもらっているのです」と答えたと伝えられています。

『みにくいあひるの子』しかり、『マッチ売りの少女』しかり、こどもの頃に読み聞かせられた作品は、童話に間違いないし、子どものための本だと疑いませんでした。

 しかし、何度も読み返してみると、そうではないと気づかされる瞬間が訪れます。『みにくいあひるの子』の主人公は、白鳥ではないとも感じるのです。あひるという群れの中で、自分たちあひるこそ、この世界で最も価値のある生き物だから、どんなことをしたって許されるんだという群像を描き。

 『マッチ売りの少女』では、神様に天国まで導かれる少女が主人公ではなく。助けを求めている少女の前を通り過ぎて行った、ともすれば自分かもしれない、観衆を表した群像なのだと、今となっては思うばかりです。

 「かわいそう」「なんてことをするんだろう」という、純粋な気持ちが、成長の過程の中で、損なわれてゆくもの。緩やかに失われてゆくものに対してのメッセージ。それは、もはや大人のための物語ではないでしょうか?

 本書『絵のない絵本』は、文字通り、絵がありません。終止、文字のみで語られるはずの作品が、まるで絵画の中を旅するような感覚をもたらす、不思議な短編集です。心に残った一行から、物語を紐解いてゆきたいと思います。

第一夜
インドに住む少女はランプを川に流す。ランプの灯りが、途中で消えて仕舞えば待ち人の命はない。ついていれば救われる。少女の願掛けは、彼女の「生きている!」という叫びを川にこだまさせるのを月は見ていた。

 月は人が正面から顔を付き合わせても見えないような、善と悪を照らします。

 誰にも見えないような、人の祈りを映し出すことができる。今夜も人知れず、何かに祈る人間を優しく優しく描写した光景です。

 

第七夜
カシとブナの立派な森林を人々が行く。「去年は一山十四ターラーもうけた」地主にとって森林は薪の数の興味だけ。若者がやってきた。若者の興味は自分の未来だけ。酔っ払いがやってきた。酔っ払いの興味も、やっぱり森林にはない。貧しい絵描きがやってきた。森林の美しさを見たままに描いていた。同じく貧しい美しい女がやってきて、森林の美しさに溶け込んでいた

 美しいものは、いつだってそこにあるのに。自分の瞳が、それを見つけられないだけ。

 それどころか、美しいものを醜く、陳腐なものに変えてしまうのが人間だと、描写します。

第十六夜
醜い少年はサーカスでピエロをやっていた。彼が何かをするたびに皆んな笑い、サーカスはますます盛り上がった。でも、本当はもっと綺麗な役者をやりたかった。ピエロは恋をした。優しくしてくれる女の人に。女の人は結婚した。彼は女性を愛していながら、ここでもピエロを演じた。女性は死んだ。女性の墓の前に祈りを捧げる彼は、もうピエロとは言えぬ、美しい青年となって月に照らされていた。

 みんな、何かしらを演じてるのだと思います。

 ピエロの青年は、その恋を余すことなく伝えることができたのは、最愛の人が亡くなった後だった。

 自分にとっての本当の姿が、誰かにとっての本当の姿じゃいない。その逆もまた同じことが言える‥‥。

まとめ

 短い言葉の中に、揺るぎない真実を描く。描ききる。アンデルセンの童話には、そんな決意が見られます。

 不思議です。どうして同じ言葉でも、アンデルセンが紡いだ言葉は、まるで絵画のようになるのだろうと。

 月が夜空の上から、人々を眺めるお話も。その視点や想像はどこから生まれたのだろうと。

 その文章は、悲しいことを綴っているはずなのに、どこか温かく、優しいことを綴っていても、どこに悲しげな空気が漂う。

 そんな筆致が、紛れもなく、人を描いているのだと、思うのです。



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