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⭐️学び:無為自然から学ぶ

「天と地は偏愛を知らない。万物をその用途と消失のままに任せるのだ。
そのように、聖人もまた民に対して偏愛を知らないのである。特に誰かにやさしくしたり、逆に誰かを邪険にしたりはしないのである。」

(老子:王明訳 地湧社)


「天地はまことに情けを知らぬ不仁なものである。万物をそのまま打ち棄てている。
聖人もまた情けを知らぬ不仁なものである。何となれば大切な民百姓をそのまま打ち棄てているからである。」

(諸橋轍次:老子の講義 大修館書店)

ぼくはいつも「ここからどう考えるか」「ここから何がいえるか」といったことを考えている。

「どんな意味があるのだろう」「何かを変えるべきなのか」といったこともよく考える。

大それたことを考えているわけではないが、いろんな出来事は、いつもぼくを変更させようと働いていると思えなくもないのだ。

老子の言葉にあるように、自然は何かを働きかけてくれているわけではない。
聖人の教えも何かを強制するわけでもない。

すべては自分自身が「どう考えるか」という自由の中にいる。

祈ったり願ったりから何かが生じるわけではなく、意思の働きと行動と偶然が引き起こすのである。また、それを間違いだと指摘する力もある。

無為自然はいつもそのままの状態なのだ。それらを加工することも放置することも自在だ。このことがかえって私たちを苦しめることにもなる。

人間は指示されることや導いてくれることで安心を得るものだ。

自由は己に決定権があるが、それを行使するには不安が必ず付随するのである。

それもこれも無為自然の働きの自由度によるものだ。

ぼくは無為自然の中で何を創り出すかで苦しむ。流れに任せることも自由な流れに逆らうのも自由なのだ。どちらを選んでも苦しみが伴う。

どちらかを選ばざるを得ないという条件もある。無為自然とは優しくも厳しくもないのだということがよくわかるのだ。

無為自然に対する人間の誤った行為や思考は、人間の「生きにくさ」を生み出しはするが「指摘」はしないのである。


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