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哲学: 不幸感について

幸福感よりも不幸感の方が心を支配することが多いような印象がある。

「たまにある不幸は幸福になれてしまわないようにするためにある」と昔の人は言ったようだ。ま、そうかもしれない。

「何もせずにボーとしていると幸せだ」と言う人もいる。
しかし、側からみていると「この人大丈夫か?」と思うこともある。
大酒呑んでワイワイやっている人も同じだ。

幸と不幸は紙一重だ。

大酒呑んだ後の二日酔いは不幸だが、その原因を作ったのは前日の幸せの大酒なのだ。

不幸感は幸福感の後にやってくる。

主観的な不幸感と客観的な不幸感にはずいぶんと違いがあるものだ。

毎日毎日勉強に励む学生君は、辛い、嫌だ、といった不幸感に満ちているだろうが、その後にくる幸福感を側は知っているのだ。

反対に、日々ダラダラ、ゴロゴロ何もしない人は、幸福なのかもしれないが、その後にくる不幸感を側のものは知っている。

ぼくはそういった心の状態を制御することに興味を持って学んでいる。
側は「そんなしんどいことようせんわ!」と言うが、意外にもぼくは幸福なのだ。その後にも不幸感はやってこない。

何もしないと不幸感がやってくるだろう。反対に、何かをしていると幸福感が訪れるものだ。
この繰り返しの微調整が幸と不幸の感覚を制御するようになる。

生きるを含めた何かをするというには動機がいる。その動機によっても幸と不幸に違いが生まれる。この話は長くなって嫌われることで不幸感が訪れるに違いない。
また別の機会にしようと思う。

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