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まあ、いいか。

たいていの場合。僕らは、与えられた「選択肢」を選んで生活している。つまり「自由」は限定的なものということだ。
でも、そういうことに「不自由」を感じないように、僕らは「学校教育」で躾けられる。子どもの頃から、もちろん「無意識のうちに」。
だから、大人になる頃には、「選択肢」が与えられないと生きてはいけない「私」になっている。

刑務所に入れられている受刑者でなくとも「自由」は限定的だ。でも、学校教育を経て大人になった僕らは、「いくつかの選択肢があって、その選択肢を選ぶことができる」状況を「自由」だと勘違いしてしまっている。それも「たいていの人」がそうだから、違和感を感じることがない。

そもそも「通う学校」だって選択肢だ。今はようやくフリースクールが制度化されてきたが、僕が子どもの頃は、住んでる地域の「公立」に行くか「私立」に行くかぐらいしか選択肢がなく、それも年少ならば、ルートは親が敷設し、中学・高校あたりになると「勉強ができる/できない」で、選択肢の数は減っていった。大学も同様。そんな感じだった。

(仮に勉強ができて、でも、たまたま「いわゆるFランクの大学」に大好きな先生がいて、だから、そこに進学するといえば、親も、学校、予備校の教師も、それを止めに入るだろう。「勉強ができるのに」とか。「自由」より、よりよい「選択肢」を選ぶ方がいいと。彼らも無意識に「使徒」なんだ)

還暦を過ぎた僕に与えられた選択肢は、ドトールやスタバのメニューに記載されているほどの「数」だろうか。それも、結局は大半が同じコーヒーや紅茶が主体で、それを薄くしたり、ミルクを入れたり、そういう順列組み合わせみたいなもにだ。飲料の自販機でも、たいていが麦茶か緑茶かで、自販機で「烏龍茶」にはめったに出会わない。無糖のカフェラテもない。

そんなもんだ。

わざわざ「選択肢」を設けるということは、個人の自由を「型にはめる」が目的だ。そうでなければ、わざわざ「選択肢」など設ける必要はない。スタバに入って「お抹茶が飲みたい」という客を排除するためでもある。そのために、スタバは店舗イメージからデザインし、期間的に表層を塗り替えながら、自社のメニューに客を囲い込む。つまり誘導だ。

なぜ、学校を卒業したら「就職」しなければいけないのだろう。学校を卒業したら「勉強」は終わりか。

誰がそういうことを決めたのか。「私」にその覚えはない。

そんなもんだ。よほど神経をとがらせていないと流される。

「まあ、いいか」と生きていくか。それとも「死ぬときぐらいは本名で死にたい」とするか。

楽なのは「まぁ、いいか」のほうだろうけれど。