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東京を生きる

オヤジの方の家は、関西から江戸に出てくてきて400年という家の分家の一つ。分家したのも「暴れん坊将軍」が現役だった頃です。オフクロの家もヨコハマにしては長い方で、ひいばちゃんが秩父からヨコハマに出てきたのは明治の後半で、つまり140年以上はヨコハマ都心に続いてきた家。100歳で数年前に亡くなったばあちゃんが元街小学校の出身だから、ずっと港近辺にいる。

そういうわけで、僕には「上京者」という感覚もなければ「両親が(東京に)出てきた人」だから帰省するという体験もない。でも、現在は、「そういう感覚がない方」が(東京やヨコハマでも)マイノリティであって、僕にも「夏休みや正月には父母の故郷へ」という同級生の方が圧倒的に多かったというのが「記憶」だ。

数年前、東京大空襲に絡んで「菊川橋」のことをツイートし、僕は菊川橋を「墨田の橋」として紹介した。でも、ある方があれは「地元では江東区の橋という感覚がある」と返してきた。わが家では、菊川橋がかかる竪川は墨田だろうという認識があり、地場に旧いお年寄りには、さらに墨田というより「本所にある」と認識する方も多い。つまり「地元では江東区の橋という感覚がある」に違和感があったわけです。でも、その方は「地元では」とされている…そうかぁと思って、その方のツイートTLを覗いてみると、別のツイートに「自分は道産子」とある。つまり、彼がおっしゃる「地元」は「今、そこに住んでいる」ほどの意味。僕の思う「地元」とは違う意味の言葉だったというわけだ。

関東大震災に度重なる空襲などで、その都度、地の人は一家は四散し、また多くの労働者が流入してくる大都市。そんなことをずっと繰り返してきた東京は「上京者」だらけ。それで当然だと思う。

雨宮まみさんの「東京を生きる」は、その上京者の「心」を活写した作品なのだと思う。帯には「九州で過ごした年月を、東京で過ごした年月が越えていくー 地方出身者すべての胸を打つ。著者初の私小説エッセイ!」とある。

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この著作には、この国の社会(あるいは世間)で、独身の女性として生きていること…その心情についても活写されている。サイド・ストーリーというより、こちらも重要なテーマ。

人は東京という空間や場所に生きているだけでなく、自分の感情と(それを持て余し気味に)生きている。そのことについても気負いもなく生成りに描かれている…そのことがまたひとりの女性の「東京を生きる」を、より一層鮮明にしている。

ピート・ハミル氏の傑作に「ニューヨーク・スケッチブック」があるが、この「東京を生きる」も、ある上京者の「東京スケッチ」の傑作なのだろう。若くしてお亡くなりになった俊英の遺作でもある。ご一読をお勧めします。

雨宮まみ 著 「東京を生きる」 大和書房 刊

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