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表現モンスター③

みなさん、こんにちは。
初回の記事から半年ぶりに更新します、「表現モンスター」シリーズ。
このシリーズは、過去の自分の心の葛藤を残すことも目的としてありますが、今の自分がいかにしてこのモンスターとして向き合い、自分を認め高めていけるか、という議題にも繋がります。
そのため、筆をとり始めた今でも、「表現モンスター」を定義する難しさに直面しています。
つまり、「表現モンスター」は生き物で過去と今とではそのあり方が異なるように、未来でも変化する可能性は十分あるのです。
だから、とりあえず、今思う「表現モンスター」を書いていきたいのですが、そうなっていったきっかけも回顧しながら書いていきたいと思います。

前回の記事↓



承認欲求はネガティブじゃない!「表現モンスター」、爆誕。

ここで言いたいのは、「私を見て!オバケ」と「表現モンスター」は似て非なるものだということ。
それはなぜか。
私を見て!オバケ」は、自分の自信のなさから来るもので、実態があるようなないような曖昧な存在です。具体的な特徴としては、

  • 私を見て欲しいと思っているが、自分には自信がなく、第三者の評価を恐れている。その結果、他者からのアドバイスを受け入れないことがある。

  • 変にプライドが高く、自分自身の実態は見ず、虚栄心で物事を判断することがある。

  • 自分自身への自信のなさから、自分の弱点と向き合わずなきものとしようとすることがある。

  • 場合によっては、無意識に他人を攻撃することがある。

  • 問題意識や自己顕示欲に対して曖昧な判断力で行動しているため、精神的な恐怖心や不安が常にある。

では「表現モンスター」とは何か。
彼も同じくプライドがあります。それに自己や他者からの承認欲求もあります。
大きく違うのは、

  • 自分の弱点を理解し受け入れた上で、それをどのように変えていけるかの問題意識を持っている。

  • 自分は誰から評価されたいかを明確に持っている。

  • 自分のしたいことに対して、努力を惜しまない。

  • 自分のしたいことに素直であり、自信や誇りを持っている。

  • 羞恥心や虚栄心より、表現追求を優先する。

  • 他人からの評価を恐れず、自分の糧としている。

私を見て欲しい欲求を「表現」によって発散し、自分を高める存在、それが「表現モンスター」

Part1や2の青春期の自分が最も苦労したこと。それは、この欲求をいい方向へ導く思考力と意志だと思います。

なにせ、経験データの少ない人間は、他人から言われた言葉に潜むニュアンスの汲み取りに対して正解を求めるがあまり、個々の言葉のコンテクストに含まれる個性を見逃しがちです。
例えば、評価に関する発言の中には「悪意」と「善意」が含まれていることまでは表面上分かっていても、発言者が込めた個人的な思いだったり個人的な都合までは読み取る余裕がありません。なぜなら、その個人的な思いや都合は、発言者の経験に基づくもので、青年が同じような経験をし同じような感情を抱いている方が少ないからです。
また、経験の少ない者ほど、民意に正当性を見出しがちです。例えば、みんなが思う意見が正解であるという考え方。その思想は時として、例外の個を苦しめます。
表現者という立場においては、その「個」をいかにプロデュースしていくかが大切で、その力の源はまさに「承認欲求」だったり「創作意欲」にあると思います。
「表現モンスター」とはまさに、「創作意欲」の目的に対する貪欲さが根源で、それに「承認欲求」が付随するものなのではないかと思う
のです。

ぱれすぅ〜の場合、「踊りたい」「認められたい」といった感情を抱いた当初は、踊る活動そのものに純粋で貪欲でした。しかし、周囲と比較し出したあたりから、自分の心を守るためにそうした剥き出しの欲望をセーブするようになった。すると、心を傷つけることに対して恐れもなく果敢に励む人たちは、表現者を育てる側からすれば育てがいがありますが、そうでないぱれすぅ〜はその競争の波に乗れず見放されていく。それを感じ、でもどうしたらいいか分からず、分からないことに対しても声を上げられず、さらにうちに篭る。と言った負の連鎖が続いていったのです。

その負の連鎖は本気でプロを目指していた時代、常に感じていましたが、当時人間不信も若干患っていたぱれすぅ〜はどうすることもできず、そんな自分を一回捨てて大学に進学することで止まっていました。
またバレエの世界に入り、違う立場で物事を見れるようになってきている今だから気づいたこと。それは、そもそもダンスの起源を辿れば、タランチュラの毒を抜くために踊り狂うことからくる伝統舞踊や宗教の崇拝を踊りにしているのだから、人間それぞれの心を踊りにすること自体理にかなっている。
とある先生は、次のようなことを言いました。

ダンスでは思う存分自分をアピールしていい。
なりきるんじゃない。自分の中にある燻る感情を踊りに変換して、さらけ出すんだ。
日常一般的にそうした行動は自己中であり、社会的には異質だろう。しかし、自分のむしゃくしゃする衝動や欲望を踊って発散することは罪じゃない。むしろ、それを楽しいと思うし、楽しんで見てくれる人もいるんだ。

自分じゃない自分になるとは…

この言葉によって解き放たれたぱれすぅ〜の心は、「表現モンスター」を手名づけるのではなく、一緒に暴走させる仲間として受け入れることになりました。
すると、子供の頃から踊るときに感じていた「自分じゃない自分になる」感覚に対する認識に変化が見られました。というのも、それは「日常の自分」ではなく「なりたい自分になれる機会が踊りにある」と気づいたのです。
だから、「表現モンスター」の存在をお化けのように半透明にしてしまわないように、思い切って受け入れ正直に向き合う今(フランス行き)を選んだぱれすぅ〜は、精神的には若干わがままで青春期よりも子供っぽい時もあるような、、、そんな日常を送っています。

表現モンスターのその後について

このシリーズは、一旦終わりにしますが、この葛藤からくる学びについては今後も書いていきます。

例えば、先日、バレエ教師国家資格の授業の一環で「教育的評価」に関する本を読む機会がありました。私は評価に対する恐れを学術的に分析するこの本が大変興味ぶかく感じました。
また、フランス生活をする中で、全く価値観の異なる人と話すだけでもいろんな発見があります。

そうした日常のあれこれをつなげていくと、私の表現モンスターは進化するように思うのです。なので、もしかしたら何年後かに更新されることもあるかもしれませんが…。

文学的センスがあればもっとアーティスティックにかけたであろうこのシリーズ。文才を磨けるよう努めます。
では〜!

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