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池に咲く花

アートの力を信じているのは理由があって。

音楽、映画、写真、絵画、ダンス…生活に彩りを与えてくれる存在。一輪の花のような。

思春期の頃にそれでいいんだと語りかけてくれた言ってくれた音楽。
人生とは儚いものだということを教えてくれた映画。
この瞬間は“いま“しかないって時が経つにつれて強烈に伝えてくれる写真。

全て自分へのインスピレーションを与えてくれるし、これらが自分を作っていると言っても過言ではない。文化はそうやって創られてきた。

だけれども、僕の日常生活の特に平日なんて機能的なものが溢れている。
役に立つかどうか、何のためにやるのか、すでに他の人がやっている。
機能的な土俵の上では常に誰かが誰かを押し出し、時には猫騙しで自滅することを狙ってニヤリとしている人が土俵の中心を狙っている世界。勝者は一人、敗者は他一同。こんな土俵は息苦しいわけだ。

機能的な世の中に対して対抗するのは文化的なもの。
観衆の中心にスポットライトを浴びる土俵ではなく、森の中に静かに存在する池。
そこに小さな花がこっそりと咲いている。

文化には勝者も敗者もない。好きか、好きじゃないか。
だから、好きなバンドが売れてしまうと少し寂しいし、自分は売れる前から知っていたと言い張る人も出てくるのも頷ける。
文化的な池が果たしている役割は世界にある。

そして、近年の生成AIがこの文化的な領域に機能を持ち込もうとしている。
どんどん作品を大量生産してきている。まるで写真のような画像。まるで〇〇〇〇のような音楽・絵画。そうやって世界の文化が機能に侵食されている感覚。
森が切り崩され、池を埋め立てられ、コンクリートが流し込まれ、そこにも観客を集めて一番を決める勝負が始まろうとしている。また土俵ができるのだろうか。

アートですら人間だけの領域と思われていたが、AIの得意領域ということはわかった。AIがどんどん作品を生み出し続けられることもわかった。

ただ、人間がアートを創っている間の楽しさをAIは提供できない。
完成系を提供はしてくれるが、最中の熱は提供してくれない。
熱中は人間のものだ。

昨晩、絵を描きたくなりアクリル絵の具とキャンバスで絵を描いた。

下書きをするときの鉛筆がチビって何度も鉛筆削りで尖らせていくとき。
アクリル絵の具を出すとき。
筆で色をキャンバスに落としていくとき。
白が黒になるとき。
それをしているのが自分に委ねられているということ。

これが全て。これ以上でもこれ以下でもない。
何のためとか何を目指しているかとかそんなものない。
この瞬間が楽しいからやっているんだ。

これ以上機能的な土俵に上げられないように、誰の目にも触れないように森の中に身を置く。結果、一輪の花が咲いた。

どこの世界にも繋がっていない文化的な池の中で、のびのび泳いだり、ぷかぷか浮いたりする僕。
ただただ、花が咲くのを待つ。

誰も見てなくてもいい、誰も見てないからいい。

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