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「聖書のコトバは人を傷つける…ことがある」

 いや、そうなんですよ。私たちは聖書というと「人を幸せにする」「よりよい人生に導く」書物だと思い込んでますけれど、そんな単純な話ではありません。それどころか、聖書のことばに苦しめられてきたという人の心の呻きなんていくらでも聞いてきましたよ。牧師ですから。

 たとえばLGBTの人にとって、大概の教会は自分の存在を否定されるような場所でしかないのではないか?youtubeを開けば「いかに同性愛が罪であるか!」みたいなのがウジャウジャ出てきます。

 親から愛されなかった、虐待されてきた子どもたち。彼らにとって十戒を心静かに聞けというのは無理があるだろう。ここで私の旧友である平良愛香牧師の自作の歌を紹介したい。

 私も養育里親をしている立場として、この歌に共感する。私は子供に「それでも産んでくれたんだから!」とは言ったことがない。子どもの傷や怒りをそのまま受け止めるだけである。いつ、どのように神様が取り計らわれるのか。それは私には決してわからないことなのだから。

 同様に「赦しなさい」「裁いてはいけません」「不平不満を口にせず、自分自身を高めなさい」も牧師が言いがちかもしれない。どちらも聖書に書かれているし、キリスト教といえば「赦し」といってよいだろう。
 だがそんな簡単なことなら、キリストが十字架につく必要もないではないか。私たちは生きている中で誰かに傷つけられ、満たされず、不公平や不条理の中に置かれているのである。いじめられて受けた傷、DVや虐待による苦しみはそんな簡単に癒せるものだろうか?不平不満を言わずに生きていけるほどこの国や世界の現実は人間ひとりひとりにとって満たされているのか?多くの子どもが貧困に苦しむようになっているのに。元旦の震災で家を、家族を失った人たちに対する支援は以前、十分ではない。彼らが不平不満を述べてはいけないのだろうか?説教でいうだけならまだしも、なぜSNSで毎日のように繰り返しつぶやくのだろう?その言葉がナイフのように誰かの心を突き刺し、心をがんじがらめにしてはいないか?

 私たち牧師が聖書を語るとき、その言葉が会衆を裁き、傷つけ、苦しめることがあるのだということを決して忘れてはならない。しかしキリスト者である以上避けては通れない。そのうえでなお、聖書の問いかけに向き合わねばならない。だから牧師も信徒も悩み続けるのだ。


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