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失ったCare(ケア)を取り戻す

かつてハイデガーは,その著書『存在と時間』において,「人間存在こそがcare(ケア)である」と言いました。
ケアとは気がかり・気遣いのことです。
気遣いという在り方によって個々の関心が生み出されます。
気遣いという在り方をしているからこそ,大切なものと,どうでもいいものが存在するのです。
つまり,ケアされるとは大切にされていると感じることでもあるわけです。

人間は基本的に受け身の存在です。
赤ちゃんは他者の支援なくして生きることができません。
誰もが根底には,自分を大切にしてくれる存在,ケアしてくれる人を欲しているのです。
そして,今,コロナ禍における分断や価値観の多様化などのよってケアを失った人が増えているようにも感じます。
誰からも大切にされず,いてもいなくてもどうでもいい存在となりつつある人々です。
そこまで強烈なものでなくとも,なにか自分の中に気持ち悪さを感じる人は少なくないと思います。
人間が強烈に恐れるものが,『孤立』『追放』なのです。

SNSやメディアの中に溢れる怒りを声に耳を傾けると,その根底には「私が含まれていない」,「私が大切にされていない」という思いがくみ取れます。
まさしく,ケアが失われた人々の声のように感じます。
大切されるとは,何も上げ膳据え膳のような状態のことではありません。
ただただ話しを聞いてもらいたい,その一点だと思います。
凶悪犯罪を起こした人の特徴に,「話しを聞いてくれる人がいなかった」というものがあります。
人間にとって,話しを聞いてくれる人がいるというのは非常に重要なことです。 
傾聴がケアになるとは,そういった意味でもあるのです。

私は,再びケアを取り戻したい。
それは世界全体という広大なものではなく,自分の周囲にです。
もし,同調してくれる人がいるならば,それは大きなものとなるかもしれません。
人間は基本的に受け身な生き物です。しかし,受け身のままでは幼稚です。基本は受け身ですが,それを分かった上で誰かを大切にすることが必要でしょう。
真に自分が大切にされていると感じられるのは,自分が誰かを大切にした時なのです。

自分が大切にされ,その経験を持った上で誰かを大切にした時,自分が大切にされていたことに気づけるのです。

とは言え,常に親切でいる必要はありません。
自分に余裕がある時に,少しだけ親切にすればいいのです。
それは時として,お節介だったり,余計なお世話なのかもしれません。
コスパもタイパも悪い行為かもしれません。
しかし,孤立が増え続けるならば,ウザイくらいが丁度いいように思います。
そして,「情けは人のためならず」と言われるように,そういった行為は巡り巡って自分へのケアとして戻ってきます。
辛いことがあるなら,私も話しを聞きます。
一緒にケアを取り戻しましょう。
今日,誰かを大切にしてみませんか?

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