記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画『蛇の道』 先生!何の証明問題なんだか分かりません!(ネタバレ感想文 )

監督:黒沢清/1998年 日

私が黒沢清を見初めたのは『CURE』(1997年)と『危ない話 夢幻物語』(89年)第2話「奴らは今夜もやってきた」から。
素直に面白かったんですよね。怖かったし。
『CURE』とかね、役所広司が飯食ってるだけで怖いんだよ。マジで。

後に「Jホラー」などと呼ばれますが、黒沢清の根底にある恐怖は「怪談」に近いと思うんです。
アメリカ型のホラーって「ビックリ!」「ドッキリ!」驚かせ系が多い気がするんですが、黒沢清の描く恐怖って真綿で首を絞めるような怖さだと思うんです。

黒沢清は「恐怖に対して真摯だ」といったことを『地獄の警備員』(1992年)でも書きましたけどね。

本作を観たのは今回が初めてですが、そういった(初期の)黒沢清の良さが出てた作品で、黒沢清ファンの「私は」面白かったです。

ただ、ウチのヨメが疑義があると言い出しました。
「誰に向けた何のための映画なんだか分からない」と。

言い換えれば、劇中、哀川翔が謎の(?)数学の証明問題を解きますが、この映画自体が、観客に向けて何を証明しようとしているのか分からない、というのです。

言いたいことは分かります。
恐怖に対して真摯に向き合い、観客の「納得」よりも「恐怖」を重視する「恐怖中心主義」の黒沢清は、往々にして観客に対して「不親切」なのです。

ここで黒沢清総論を論じるつもりはないのですが、概して黒沢清は「意味」を排除する傾向があります。
ものすごく理論的な画面を構成した上で、理屈抜きの「映画的瞬間」を求めています。

まず「理論的な画面構成」について言えば、「なぜそこにカメラを置いたのか」「なぜその画角で切り取っているのか」、おそらく彼は全部説明できると思います。
観ているこっちも気持ちがいい。「なんでそういう撮り方するんだよ!」「カメラブレさせればカッコいいと思うなよ!」的なことが一切ない。

例えばこの作品では、移動する車の車内からフロントガラス越しに道を映すショットがいくつか出てきますが、「真っ直ぐな道」って一切ないんです。
曲がった道か、起伏の激しい坂。
これは主人公たちの「先の見えない」計画と、観客に「先の見えない」不安感を与えるんですね。黒沢清の画面はすべて意味がある。

でも、彼が求める「映画的瞬間」は「意味」や「理屈」の先にあるものなんですね。
人間の「喜怒哀楽」といった感情は、意味や理屈ではない。
特に「恐怖」は。実際、納得できないことの方が「恐怖」ですからね。

ところが、「恐怖」のために「意味」を排除した結果、観客の理解が及ばないということが往々にしてあるのです。
ぶっちゃけ、黒沢清の画面は理論的ですが、登場人物の「感情の流れ」は全然理論的じゃない。登場人物が何を考えてそういう行動をとるのか全然分からない時があったりする。むしろ「ストーリーテリングが下手」だと言ってもいい。

この頃の香川照之はいい役者だったんですよ。

この映画、観終わって初めて主人公の感情が分かるんです。
それはある意味、黒沢清の「仕掛け」なのかもしれませんが、観客側は観ている最中、気持ちが乗らないんですね。正直、誰に感情移入すればいいか分からない。なんなら香川照之に感情移入しちゃうぜ。
似た作品で阪本順治『トカレフ』(94年)というのがありますが、これはもう「誘拐事件」「復讐劇」というのを早々に打ち出し、そのカタルシスを追い求める。

そうなんですよ。黒沢清の作品にはカタルシスがない。
これ、誰が何を楽しいと思って観てるんだろう?
いや、私は楽しんだんだけどね。
コメットさんの歩き方とかね、後の『回路』(2000年)の幽霊を彷彿とさせるよ。

余談
自分で阪本順治『トカレフ』を引き合いに出して思ったんですが……
この『蛇の道』が1998年(平成10年)製作、
『トカレフ』が1994年(平成6年)製作、
『64(ロクヨン)』で描かれる時代が1989年(昭和64=平成元年)、
宮崎勤連続幼女誘拐殺人事件が1988-89年(昭和63-64年)。
なんとなくですが、あの衝撃の事件から「復讐劇」に至るまで5年から10年はかかるんだ、という気がしました。

(2023.07.23 神保町シアターにて鑑賞 ★★★★☆)

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?