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優しい人の語りを聴くこと

言葉を発する前に数秒間、間が開く。
そして話し出す。
その内容はまるで
文章を読んでいるかのように感じる。
一直線ではない。( )がところどころ見える。

それがどうしてなのか。
まず、最初から結末を
考えていないからなのではないか。
だからこそ、時間が必要なのではないだろうか。
話をしながら同時に考えている。
視線が自然と上を向き、間がある。
私はその姿にその人の繊細な思考を垣間見る。

もう一つ、( )は伝える相手に
自身が伝えようとしている
内容、絵が可能な限り、
正確に伝わるようにするための、
いうならば注釈のような気がするのだ。

話し慣れている、
いや喋り慣れている人の話を聞くことは
耳に心地よく聞こえることだろうと思う。
しかし、瞬く間に舞い散るが如く
消費される気がしてしまう。

反対に、時間をかけ、
( )をたくさん使いながら話している人の話は
心地良くはないかもしれないが、
埋め込まれるが如く留まり続ける気がするのだ。

教科書を開けば、それはインプットと
アウトプットのバランスという言葉たちで
理論的に、軽々しく
表現されてしまうのだろうが、
そういうんじゃないと思ってしまう。

もう一種の癖だと思う。
考える時に肘をついて手掌が頬にいくとか、
本を読む時に爪を噛むとか、
そういう感じの。

意識して出来るものが偽物だとは言わないが、
無意識の中でなされるものに
私は思わずうっとりしてしまう。


その間を、( )を
心地よいと感じる人もいれば、
煩わしいと思う人もいるだろう。
思考力の高さ、頭の回転の速さということで
分かったことにしてもいいように思う。

しかし、私はそう思った時、
何か一つ、目には見えずとも存在する
破片のようなもの
削り落としてしまうような気がするのだ。

私はそんな破片を大切にもつ人を
「優しい人」
だと言いたい。

高尚な言葉など必要ない。
ただ、優しさをもった人、
そう表現することが可能であってほしく思う。

そんな優しい人は実は聞き上手でもある。
優しさをもつ人だとますます感じる。

しかしながら、
それだけ繊細であるようにも思う。
突然、目に前からいなくなってしまうことも
あるだろう。
突然、先の見えない森に向かって明け方、
歩みを進めようとしてしまうこともあるだろう。

けれど、そうやって生きてきたのだと思う。
それがその人なりの
自分との付き合い方なのだと思う。

どうか話し終えられますように。
最後まで、聞いてくれる人の側に
いられますように。
これはもう願いではなく、祈りだ。


おまけ
この文章は宇多田ヒカル氏が
『40代はいろいろ🎵』という
オンラインライブで行った
トークシーンアーカイブを視聴したことで
生まれた。
私は彼女が若き頃から今に至るまでの
話をする時の仕草、テンポ、口調が、
成熟さと幼さが混在する彼女の作る音楽が
愛おしい。


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