☑︎かかわり方のまなび方/西村佳哲

 「これを読むべき!」
そう言われると、心の中で何故か読む気が失せてしまう。
「それはあんたの感性で良かったもんやろ?」と反発したくなってしまう。
そんな私がTwitterで見かけて、すぐにBook Offのアプリケーションを
ダウンロードし、注文していた。(これ含めて三冊の古本を同時に注文したのだけれど、この新本一冊の値段と同じくらいで三冊買えた。)


古本だったので、ページのところどころに、もともとの持ち主が
青鉛筆でアンダーラインを引いている箇所がいくつもあり、
きっと、愛された本だったんだなと感じられた。
そして、そのラインを私はもう一度、今度は蛍光ペンで引き直した。

彼の有名な言葉に「The way to do is to be」というのがあります。相手の前で自分がどういられるか。それが問われるわけです。

 ファシリテーションという言葉を初めて聞いたのが、大学一年生の春。
だっぴというあの団体に出会って、自分がその役割を担うことになってからだ。
それから三年。時々、私は嬉しい言葉を言ってもらえるようになった。
「ぺらちゃん、話しやすくて、相談しやすい」
『kiitos』というコスメ?雑誌にあったエレメント占いで「鉄星人」だと判明した私が自身の成長を感じるには十分な言葉だった。(ちなみに、私と同じ鉄星人の芸能人はマツコ・デラックスさんと友近さんだそうです。ふんわりとした明るいピンク色のBBクリームがおススメとのことでした。)

初めてファシリテーターという役割を担ってから、その機会をいただくたびに私はどうあることが良いのだろうと、ある種の型やパターンを探っていた。こういうタイプの人がいるときはこういう自分で。こんな話が出てきたらこう掘り下げてみて・・・。(一年のことは特にね)
けれど、この本に出てくる何人もの方たちの話を読んでいると、多くの方が相手のための場ではなく、自分のための場であるという感覚を持ちながらその場にいるということが分かった。

 少し話は脱線するのだが、私がファシリテーターをする場は、自分自身で「こうなればいいな」とか、「こんな場をつくりたい」「このメンバーで企画をしたい」そんなある程度の目標や目的がある。それは言葉という道具を用いて共通認識として理解され、実行されるのだけれど、私はどこかでこの流れに違和感を抱いていた。「言葉で表現できる」というよりも「言葉で表現できてしまった」という負の感覚が大きいかったからだ。
私の好きな作家に川上未映子さんがいるのだが、未映子さんの作品に「相手に触れられるということはそれ以上、その相手に近づけないことを同時に示されることでもある」というニュアンスの文章が出てくる。
言葉という形あるもので表現できてしまう場はある種の制限を受けた場ではないのだろうか。一見、新しいものに見えるものでも、それは何かの真似事か既存のものに少なからずの影響を受けているものと同じだ。

そんな違和感を抱きながら、この本を読み進めていくうちに、私はあるエピソードにあたる。
環境教育プログラムが自分の思う形になり成功を収めた。そんなエピソードを語ったとあるコーディネーターに筆者が違和感を抱いたというものだ。筆者はコーディネーターに質問をする。

「もし、参加者の中に本人が自分で考えた結果、あなたが期待しないような結論、(中略)『社会が持続可能であることよりも大事なことが私にはあります』という意見に到った人がいたら、その時どうしますか?」

すると、そのコーディネーターはキョトンとしてこういったという。

「その時は『どうかしてるんじゃない?もう一度、考えてごらんよ』と言うね」

その返事に筆者はそれ以上、言葉を交わすことを諦めたという。
このエピソードを読んで、私は一時期、教育界を席巻した「道徳教育」の話題にとてもよく似ていると感じた。

この世界に正しい答えなんてないというのは誰もが薄々、分かっている。けれど、人は主張をする。自身の考えが正しいとも間違っているとも思わずに、簡単に他人に自身の答えを提示し、手放す。では、反対に誰もが意見を言わない沈黙が訪れたら?ずっと深夜のような寡黙の世界が訪れたらどうなるのだろうか。私は眠れない夜、そんなことを考えて余計、眠れなくなるのだけれど、少なくとも一つ言えるのは、そこに人権という概念が存在しなくなるのではないかということである。(この見解に到るヒントをくれた我が親友には大変、感謝します。今度、遊びに行くで!プレミアムモルツとたこ焼き持って!そのときはよろしゅう)
じゃあ、その人権とか、法は本当に誰もが正当なものだと思えるものなのか?そんなところまで考えを突き詰めると、次の日の肩コリと肌荒れがとんでもないことになるので潔く、羊が一匹・・・と唱え始めるのだけれど。


 さて、ファシリテーターについての話に戻ろう。
私がこの本の中でメモを取った考えや文章がいくつかあったのだが、その中でも文字が潰れるくらい蛍光マーカーを引きたくなった部分が二か所ある。

大事なのは、ファシリテーター自身が、ワークショップの現場でどんな自分でいられるか、自分のことを信頼できるかだと思うんです。
ファシリテーター自身にも、思わぬ支配性やエゴがあったりするものだと思う。それに気づくことが、とても大事なんじゃないでしょうか。(中略)気がつくことで、その自分から自由になれる。今の自分と気づいた自分の間に少し余裕が生まれて、自由に動けるようになって。自分のちっぽけさや、企てにも気がつけるようになる。

まさに、「to be」である。
どんな自分でその場にあることが、自分のためになるのか。ひいては相手のためになるのか。その先がたとえ、自分が意図していた見解や答え出なかったとしても、それをええのんとちゃいますの?と思えるかどうか。
そんなに気負わなくても、大丈夫よってことなのだろう。

よく言われるのが、終わったころに、「そういえばここって誰がファシリテーターだったっけ?」と言われるくらいになるということだ。理にかなっているといえばかなっているかもしれない。でも、それがただ一つの答えでなくてもいいような気がする。
その場にいる人が即興的に生み出した場だからこそ、価値あるものが眠っているかもしれない。その価値は皆にとっての価値あるものでなくてもいい。(というか、そうならないよね)自分の心の中にひっそりと入れておけばいいのだろう。「ええもん、もろたで」そう、ふひっと各々が思えたら。それを生み出そうと、ファシリテーターが躍起になる必要はない。自身がその場で様々なものを感じているように、きっと相手も感じている。それが同じでなくても、まあ、ええやん!と思っていたらね。

 自分ではずっと、人の話を聞くよりも話す方がいい!と思っていたのだけれど、他者から「あんた、結構、聞き上手よ」と言われると、自分の新たな強みに出会ったような気がしてちょっと嬉し恥ずかしだった。
けれど、今、この文章を打ちながら、「人志松本のすべらない話」を聞いているのだけれど、まっちゃんの聞き上手さにはもう脱帽する。話し上手なのは勿論なのだけれど、売れている芸人さんほど聞き上手が多いような気がする。若手の芸人さんが一生懸命に話していることに、「なんでやねん!」とリアクションを取ったり、「うん、ほしたら?」とうまく合いの手を入れたり、「ああ、うちのディレクターのな」と足りない部分を補足したり、そして最後には「嘘やろー」誰よりも笑っている。

それやから、上方漫才が好きで、ラジオを聞くのがやめられへん。ダウンタウンの漫才、えぐいで。浜ちゃんもまっちゃんのかっこええで。関西弁の芸人さんのラジオを聞いていたら、自然と口調も関西風になるで。

というわけで、関西生まれ関西育ちの関西弁エリートに皆様。
明石生まれに関西弁講座、開催を宜しくお願い致します。
全く内容とは関係のない終わり方になってもうた・・・(笑)



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