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なぜ死は悪いのか【読書感想文】

以下をご了承のうえ、お読み下さい。
・「死」について語ります
・私は無神論者です

最近読んで面白かった本を紹介する。
今回の本はこちら↓


きっかけ

強烈なタイトルと、教壇で胡坐をかくオッサン。

どんな本?

  • 死とは何か?

  • 死は悪いのか?

  • 死んだらどうなるのか?

  • 不死は素晴らしいことか?

など「死」について様々な角度から考える本。著者は哲学教授なので「死んだら天国にいく」「魂は残り続ける」といった宗教的な思想には頼らず、あくまで論理で切り込む本。

大学の講義をもとにした本なので「明確な答え」は書かれていない。読者には「考える切り口」と「いくつかの回答例」を提示するだけで、最終的には読者自身が考えなければならない。

答えを求めて読むと拍子抜けするかもしれない。私も序盤で肩透かしを喰らったが「読むだけでは結論の出ない本」と割り切って読み進めた。

感想

死をタブー視したくない

死は不吉であり、穢れであるとされる。死を話題にすること自体がタブー視されがちだ。しかし、不死を実現する「超絶技術革新」がない限り、私たちは必ず死ぬ。身近な人の死に直面する可能性も高い。

私を含め、多くの人は死を恐れる。私は「死」を漠然と恐れるくらいなら、まずは「死」について考えたい。当書を通じて死を知ろうとするのは適切な対処に思える。

死は悪いのか?

死が「良い」か「悪い」かは断定できないが、ほとんどの場合において死は悪い。しかし、著者に倣って考えると「死そのもの」は悪くないと結論できる。

私は著者と同様、死後の世界は「無」と考えている。正確に言うと、死に伴って認知機能が永久停止するので死後の世界を認識することも、経験することも不可能になる。

死後を認識も経験もできないのなら「死そのもの」に良いも悪いもない。ただの無である。死が悪いのは「死そのもの」ではなく「死に付随する事象」に原因がある。

死は「剥奪」を伴うから悪い

死に付随する事象で凶悪なのは、死に伴う苦痛だ。病気による激痛が代表例。しかし、死に伴う苦痛だけでは死の悪さを説明しきれない。睡眠中に苦痛を伴わずに死ぬ場合でも、死は十分に悪そうだ。

苦痛を伴わずに死んだ場合、いったい何が悪いのか。それは「剥奪」である。死ぬことによって、生きていれば経験できた「良いこと」を経験する機会を失う。死は、人間からあらゆる機会を剥奪する。

死は同時に「悪いこと」を経験する機会も剥奪する。たとえば、余生に拷問を受け続けることが確定していれば、死に伴う剥奪はむしろ「救い」かもしれない。

「剥奪云々ではなく、生きていること自体に価値がある」との考えもある。しかし、私は否定的。またもや極端な例だが、ひたすらに「1, 2, 3, 4, …」と数え続けるだけの人生に価値があるとは思えない。

余生の評価が肝

「余生が全体的に良い」とすれば、死は剥奪を伴うので悪い。一方「余生が全体的に悪い」とすれば、死は悪いとは限らない。

ここで余生の評価を定式化する暴挙に出てみる。もちろん、未来を知ることは不可能。あくまでも思考実験としてやってみる。

余生の評価
=(今後の幸福の総量)-(今後の不幸の総量)+(生そのものの価値)

私は最後の項(生そのものの価値)はゼロと考えるが、人によって考え方が違うので定数項のひとつとして加えておく。

問題は幸・不幸にまつわる2つの変数だ。幸福の総量は「満足度(質)」と「人生の長さ(量)」の積で算出できるのか。量より質か、質より量か、幸福にも短期と長期があるのではないか、など考え出すとキリがない。これ以上は話が発散するのでやめておく。

まとめると次のようになる。余生をプラス評価する楽観主義者は剥奪を根拠に死を恐れる。一方、余生をマイナス評価する悲観主義者は剥奪を根拠に死を恐れることはない

ちなみに、幸福については内田由紀子『これからの幸福について––文化的幸福観のすすめ』という本がオススメ。私の読書記録からも感想の一部を抜粋させてもらう。

「善なる個人が幸福になれば、その集合体である社会の幸福度も上がる」というのは欧米的な考え方。これは個人が集まって集団が形成されると考える欧米的発想だからこそ成り立つ。日本は集団の中に個人がいると考えるため「個人が幸せを追求する過程で集団に悪影響を及ぼさないか」を気にする。したがって、文化を考慮せず一元的に幸福の在り方を結論づけるのは野暮。

私の読書記録より抜粋

死の恐怖感の対処法2選

話は逸れたが、最後に死の恐怖感の対処を考える。
当書で印象に残っている対処法は「過去に感謝すること」と「何も持たないこと」の二つ。

対処1:過去に感謝する

先の議論を踏まえると、私が死を恐れる根拠は「剥奪」にあり、それは私が楽観主義者だから。私は今までの人生をプラス評価している。そして「今後も良い人生が続くだろう」と考えている。

私には「良い過去」があったから、勝手に「良い未来」を期待している。しかし「良い過去」があったのは奇跡のようなもの。その奇跡的な過去に感謝すれば「これから得るはずのもの」が得られなくても、十分に素晴らしい人生に思えてくる。

「将来失うこと」ではなく「過去に得たもの」に目を向ければ剥奪の恐怖が和らぐ。確かに一理あるし、恐怖感を3%くらいは緩和してくれる。

対処2:何も持たない

「過去に得たもの」や「これから得るもの」を剥奪されるのが怖い。ならば、何も持たない人間になれば良い。何も持たなければ、剥奪のされようがないのだから。

これは東洋的(仏教的?ブッダ的?)な思想らしい。そもそも人生は「苦」であり、期待なんてしてはならない。期待するから剥奪が怖くなる。過去の出来事も無意味だし、将来にも期待しない方がいい。これを仏教的な解釈と呼んでいいのか自信はないが、確かに理屈上は正しい。

しかし、そこまで無欲になれる自信がない。私はまだ20代だし、幸いにも健康体。無根拠に「80歳くらいまでは生きるだろう」と高を括っている。死を考え出すと「まだ楽しみ続けたい」との欲が顕在化してくる。

まとめ

ハッキリとした結論は見つけられていない。それでも読み応えのある本だった。特に、死の恐怖の本質が「剥奪」とわかったのは大きな収穫。

私は歳をとるほど死の恐怖が薄くなると考えていた。これも剥奪によって説明がつく。余生が短くなれば、余生の幸福の総量も減る。剥奪されるものが減っていくのだ。

そうなると、ブッダの「執着を捨てろ」が効いてくる。
結局はブッダなのか!?

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