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包含される反社会性

ふと自分は反社会的な人間なのだろうかと思うことがたまにある。
別にそこまで思い詰めている訳ではないが、頭の体操としてそう思うのだ。

取っ掛かりとしては、僕は平均と比較したら経済的に豊かだ。
世代の平均年収の2倍以上貰っている。
にも関わらず、まったく消費をせずに溜め込んでいる。
まぁ、9.5割を投資に回しているので、ぶっちゃけたら経済を回しているのだけど。
とはいえ、例えば僕が投資に回しているのはほぼ米国株なので、住んでいる日本には大きなものをもたらしてはいない。

で、投資が上手く言ったらFIRE、つまり仕事を辞めて投資資産の利益だけで生活しようとしている。
既にそういう人はいるだろうし、親の遺産だけでそうしている人もいるだろう。
とりあえず、僕は今働いていて、そこを目指している訳だ。
この行為というのは、反社会的な思想であったり行動であったりするのだろうか?
ちなみに、リタイア後に何か天変地異が起こって資産がなくなったら生活保護をなんとかして確保しようとしている。

僕は読書が好きではあるが、本にはなるべくお金をかけたくないと思う。
図書館を活用せずに真面目に全額払っていると月で5万円くらいかかってしまうのだ。
5万円と言えば、家賃くらいの高額である。
趣味とはいえ、1ヶ月住めるくらいのお金を使うなんて馬鹿らしい。
僕は好きなことにすらお金を払うのを拒み、図書館で無料で借りられる範囲で楽しんでいる。

とはいえ、図書館は別に社会が提供しているものな訳だ。
つまり、社会インフラである。
ただ、全員が全員図書館に依存して書籍を買わないとなると、そもそも書籍という産業自体がなくなってしまうだろう。
うーん、なんともし難い。
様々なバランスの上で、種々の事柄が成り立っている訳だ。
とはいえ、本を読まなくなった原因を図書館にしている人は、あまり見ない。
それにまぁ、そこまで大きな要因でもないのだろう。
明らかに書籍以外のコンテンツに流れているのが大きな割合だろうから。

ツラツラと書いてみて、別に反社会的なところなどないように思う。
けれど、僕みたいな人間が少数だったら別に成立するけれど、僕みたいな人間が増えたら破綻するようにも思う。
誰もが稼いだ金をまったく使わなくなったら経済は立ち行かなくなる。
その辺りのバランスってどうなってるんだろう。
僕は社会が提供しているものを上手く活用していると言えるかもしれないが、僕みたいな人間だけでは成立しない。
その観点から、僕はもしかして反社会的なのか? と悩む訳だ。

とはいえ、と思うのは。
仮に僕の趣味の範囲の書籍がまったく売れなくなったとして、では、お金が稼げないから文章を書く人がいなくなるかというとそうでもない。
たった今、僕は無償で文章を書いている訳だし、これが何かに繋がるとは別に思っていない。
むしろ、無償だからこそ気楽に適当なことを書いている訳だ。
どちらかというと、僕が自分の考えを整理する為にしている行為の副産物に過ぎない。
僕は誰かのためではなく、自分のためだったり、自分で自分を探る為に書いている。
当然、同じような人はいるはずだ。
別に僕と同じ動機でなくても、自分を知って欲しいとか、様々な欲求があるだろう。

だから、バランスが崩れてきたとしても僕自身は困らない気がするのだ。
というか、読書が好きならなおさら読みきれない程の本が既に存在していることを自覚している。
別に新たに生産されなくても、死ぬまでに暇を潰す程度の物量は用意されているのだ。
また、僕が読書から得たいと思っているのは、物語などというよりは、知識欲に近い。
となると、書籍や文章という形で提供されていなかったとしても、You Tubeなど持論を展開している人たちのコンテンツも趣味の範囲になりうる。
何となく、動画よりも書籍の方が達成感を感じてしまう部分はあるが、得たいものとして同種のものに過ぎない。

そうなってくると、自分の考えを(何らかの形で)発表するというのは、仕事などではなく根源的な欲求なのではないか?
僕は対してやっていないが、XやLINEでのやりとりだってそうだ。
別に誰に頼まれた訳でもないし、お金がもらえる訳でもないのに中毒になっている人も多い。
根源的な欲求に関して関心がある限り、僕が飽きることはないのかもしれない。

現状、流行っているビジネスのほとんどが広告かサブスクだ。
そして、広告ビジネスというのは、提供側も受け取る側もお金が取られない。
単にCMを見てもらう対価として、提供側に利益が発生する。
でもそれは、広告を見た人の何割かがその商品を買うことを前提としている。
それで上手くいっているから、経済的に回っている訳だが、広告は見るが一切何も買わない僕みたいな人間が増えたらどうなるんだろう。

と書いてみたが、前述の通り別にどうにもならないのか。
不要になった産業が忘れ去られるだけなのかもしれない。
僕が学生の頃は、まだお茶くみみたいな訳の分からない仕事があったらしいが、もう死滅した。
FAXという旧時代のモノも会社に一応備え付けてあるが、僕は使い方が分からない。

単純にいらなくなったものはなくなるだけか。
また、最低限必要なのは衣食住だし、それは多分もう余っている。
だから、基本的に多くの人はいらないものを買っているだけに過ぎない。
余剰品を余剰金で買っているだけなので、例えばその余剰品を欲しがらない人が増えて経済が破綻したとしても別に誰も困らない。

ついでに言えば、僕みたいなのはまだ少数だ。
少数って事は多様性の一部であって、バランスが崩れることはないし、崩れたとしてもまた新しい環境が構築されるので、別に破綻する訳ではなくて、移行するだけだ。
その新しいスタンダードが良いものか悪いものかは、人の感じ方だろう。
多くの人が失業したとして、失業者の割合が増えたらそれは当たり前になる。

なんかあれこれ考えても無駄な気がしてきた。
どうせすぐに何かが変わる訳でもない。
変わったとしてもその変化は予測できないし、別に変わった後で場所自体は存在する。
仮に僕が今の社会に対して、反社会的であったとしても別に誰に迷惑をかけている訳でもないし、考えることに意味はないかもしれない。
そもそもそういった反社会性も含めて多様性であり、そういったものをひっくるめてバランスが保たれているのだ。
仮に違う方向に傾いたとしても、前述の通り、それを包含して新しい社会に移行するだけの話である。

なんか簡単なことを複雑に考えすぎてるな。
そんな事に価値はないのに。
まぁでも、自分なりに考えが整理できて納得したので良いか。


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