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(Re:)もう助けてなんていわないよ、フランチェスカ。

2021年3月29日にゲンロンカフェにて行われた『さやわか×武富健治×春木晶子 北海道を衝け―番外地はいつミルクランドになったのか』というトークイベントにて「北海道は外部からどのようなイメージを持たれているのかを内面化し、自己イメージの操作に特化している土地だ」という話があった。「北海道らしさ」を他都府県からのイメージを参照し、再生産する気風があるということだ。

2021年のGWに、白老や登別といった胆振地方を観光した。この近辺は、「ウポポイ=存在した・しているアイヌ」「伊達時代村=存在しなかった江戸時代」「登別マリンパークニクス=存在しなかった西洋の城を模した水族館」が共存しているという空間になっている。比べると、登別が極めてフィクション・エンターテイメントによって観光客の注目を集めようとしているのに対して、白老はアイヌのノンフィクション性やポリティカルな正当性によって注目を集めようとしている土地ということがわかる。これらは相反しているようだが、どちらも外から持たれるイメージをどのように操作したいのか、という意図の部分で合致している。

もちろん、場所としての観光地だけでなく名産品にも、イメージの操作は付きまとう。養殖マス、白老牛、たらこについても、品質や効能などの科学による裏打ちがある。そのようなエビデンスは牧歌的で大らかな北海道らしさ、ブランドを打ち立てるための一要素として使われている。

そんな北海道らしさに、過度に縛られてしまったアニメ作品がある。『フランチェスカ』だ。北海道を舞台とし、カワイイ女の子のゾンビが活躍するアニメ作品である。北海道ローカルで2014年7月から2クール、つまり半年の期間放送された。そのあらすじは、「石川啄木がゾンビとして甦り、誤って新選組を復活させてしまう。新選組は現代の北海道をEZO共和国とすべく、侵略を開始する。その危険を察知したクラーク博士(ゾンビ)は新渡戸稲造(ゾンビ)と共に、人造人間?フランチェスカを蘇らせ、北海道を守るべく新選組と戦う」という、誰もが知っている北海道にまつわる偉人のイメージを利用した異様なものだった。

アニメDVD-BOXも持っており、様々なトークやライブイベントにも参加したという身で正直に言おう。『フランチェスカ』は典型的に失敗した地域振興アニメ、すなわちクソアニメであった。

箱館戦争を戦った土方歳三ほか新選組が登場したり、北海道大学の関係者として、クラーク博士だけでなく新渡戸稲造が登場したりするにも関わらず、フランチェスカは現実の北海道史を下敷きにしていない。作品内における北海道史は、超・超古代北海道文明ナンマラシバレルネェ王国が崩壊し、超古代北海道弁が使われる時代がやってくる、という始まり方をする。その後は縄文時代から始まり現実の歴史をなぞっているかに思えるが、鎌倉時代に源義経が内地から稚内へ逃げてくる、さらに源義経=チンギスハン説を用いてモンゴルへ渡らせる、という伝説的な歴史を採用したりする。時を経て箱館戦争勃発、五稜郭の戦いや、クラークたちが生前北海道大学にいたことが描かれるも、その間にアイヌがいたことは描かれない。

現実の北海道史はおおまかに次のようなものである。縄文時代以後、内地は弥生時代に変遷したが、北海道はそのまま続縄文時代に入り、アイヌ文化へと変遷していく。江戸時代になり、松前藩が誕生することでいわゆる「日本史」と再合流する。そして明治時代を迎え、開拓史が置かれた1869年に「北海道」が誕生する。この歴史のなかで、和人によるアイヌの征服行為があったのは確かだろう。その後、北海道は開拓100年を記念した塔、百年記念塔を建立し、さらにその51年後、開拓151年目である2020年には民族共生象徴空間:ウポポイをオープンする。

2012年、フランチェスカは北海道発のアンデッド系ご当地アイドルとして、萌えキャラクター文化を通して北海道ブランドに付加価値をつけるコンセプトのもとで生まれた。石狩振興局の公式PRキャラクターとなり、官民一体となった地域振興としてアニメなどのコンテンツを進行させていたプロジェクトだった。にもかかわらず、先住民族や文化、北海道以前の「アイヌ」について深く考えていなかったのだ。

短期間で北海道のPRを兼ねながら、さまざまな制限のうえでアニメ作品をつくった結果、名産物や名所とキャラクターを絡めることが経済/経営戦略的な限界だったのだということも認識しているが、ゴールデンカムイが流行り、ウポポイがPRされている2021年から観測すると滑稽ですらある。

道民から見たアニメフランチェスカにおける日常シーンは、あまりに普遍的であった。アニメが終わった後も、フランチェスカたちのように、当然大通公園でビールを飲み、ジンギスカンを食べることができると思っていた。

しかし、そんな日常すらいまここにはない。もちろん、日本全体がそうではあるのはわかっているが。2021年の札幌の現実は、オリンピックで競歩やマラソンが開催するということで、大通公園の中心部は柵に囲まれ、芝生は剥がされ、テントだけがある空間となってしまった。コロナ禍で各地のお祭りも、イベントもなくなっていく。鈴木知事は、安倍元首相が発出する前に、道独自と名付けた緊急事態宣言を出した。これは本当に感染症を抑え込みたかったのかもしれないが、結果として皮肉にも1年以上ものあいだ、自粛を要請され、文化が細り続ける生活の先駆けでしかなかった。

まとめよう。フランチェスカの北海道観は、アイヌと和人・過去と現代の功罪を取り入れたものではなく、名産地や景勝、偉人を扱った観光的な需要に応えるためイメージを操作するものだった。いま、現実の政治もイメージ操作に近づいている。フランチェスカがクソアニメであるならば、同様の戦略を選んでいる政治もまたクソ政治ということになってしまうだろう。

 一方、文学フリマについて、以前は札幌のランドマークであった札幌テレビ塔にて開催されていた。真夏の灼熱のなか人々がひしめき合うイベントは、今回当初予定されていた札幌コンベンションセンターや、この北海道自治労会館にはない特別さ、北海道・札幌における文学とはなにか、という問いを抱えた空間だったと思う。

イメージの操作は政治や経済で行うには危ういものである。しかし、文学はむしろ、イメージの操作をすることが重要である。今後も札幌テレビ塔で開催されることは難しいのかもしれないし、特色を出すには明示的に「アイヌ」というジャンルを入れることなどわかりやすい形でしか、いまは表現できないのかもしれない。北海道で、札幌で文学をやる、ということはそういったジャンル分けカテゴリ分けによって完成するわけではない。運営者が、出展者が、観客が、各々のイメージを持って、ぶつけて、交わしていくことで、フランチェスカやコロナ禍での政治のようなクソイベントを回避して、札幌でしかありえない「文学フリマ札幌」が生まれていくのだ。

前述のような状況にあることを省み、単純なイメージ操作に明け暮れず、イメージの複雑化、具体性や身体性のような外部への拡張性があり、誰もが参加できるかたちで、問題を捉え、批評し、前進していこう。

ふたたび「助けて、フランチェスカ」といわないで済むように。

2012年10月 第6回文学フリマ札幌にて
配布したものを改稿した。


一足飛びに展開される「諸外国に北海道の水源や土地を購入されることへの懸念表明が、アイヌを迫害侵略した開拓の歴史を称揚している」という言説はあまりにも単純である。先住民族の生活地や文化を侵略した過去を悪魔化するのではなく、現代に繋がるものとして負うしかないだろう。これらをフランチェスカ制作陣のように忌避することや、現代の北海道庁のように、アイヌ文化を絶賛する必要はない。百年記念塔が建ったとき、開拓は”記念”のものだったことは事実だろう。他人事として、物語として、キャラクターとして消費するのではなく、150余年とはいえ北海道にルーツがある現在の日本人(もしかしたらあなたの友人かもしれない)の曾祖父母、高祖父母による開墾、文化の醸成や文明の拡大を否定しているという可能性に思い至ってほしい。和人による開拓”すべてを”一緒くたに悪魔化し否定することは、現在の北海道のありようすべてを否定する可能性があるものと認識した上で、係わり方を、軸足を定めるべきではないだろうか。

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