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短編小説 | マーメイドの歓喜 | #カバー小説


夏の色界は延々と水の広がるざわめいた世界だった。

僕はここに到達するまでにどれほどの時間を無駄に過ごして来たのだろうか。

あれは桜の花が散り始めた春の日。
僕は長年片思いをしていた彼女から「あなたのことがずっと好きでした」と告げられた。

それまでの僕はと言えば、幸せなど永遠に続くものではないと最初からあきらめていて、恋心というこの想いは自らの胸に秘めているだけでいいのだと思っていた。

けれども、そう思っていたのは彼女も同じだったのだ。
僕の姿がその瞳に映るほど、勇気を出して彼女は言ってくれたのだ。
「あなたのことがずっと好きでした」と。

僕は彼女の秘めていた気持ちに気づくことなく、自らの思いを吐露できなかったに過ぎなかったのだ。
しかし、彼女の言葉を聞いたとき、欣喜雀躍して、幸せだけに包まれて、彼女を抱き寄せてキスをした。

覚醒した思考は、どんどん互いの内へと向いて行き、言葉など媒介などなくても二人の心が1つになっていく感覚に包まれた。ああ、出会ったあの時に何も言えなかったという後悔の念など、あっという間になくなり、この運命に喜びを感じた。

抱き合って互いの温もりが1つに温度に収斂したときには、僕はあろうことか、彼女と一心同体になったという、確信をもつまでになっていた。

僕にはこの世界に彼女と出会うために生まれてきたのだとさえ思った。

だから僕は「この時間よ。止まれ!」と
この一瞬が永遠になることを願った。

全ての思考が意味を持たなくなり、彼我の区別が僕の中から消えて行った。
愛という感情が僕の中に満たされていくと、悲しみや寂しさといった気持ちも消えていた。

残されたのは一点集中。少しも揺らがず散り散りにならない精神だった。

眼を開けると、季節は夏になっていた。
見渡す限りの青い海が僕たちを優しく出迎えていた。

水の中を裸足で歩くと、心地良い冷たさが伝わってきて、僕たちの心をいっそう清らかに穏やかにした。

ついに僕たちは到達したのだと悟った。
これが色界。何という静かな世界なのだろうか。

僕の横を見ると、女が瞳を閉じて、黙ってキスをせがんだ。
潮風の中、海がやたらと青く澄んで見えた。

抱き合っているのは、彼女なのか、それとも彼女と一体となった僕自身なのか。

ギリシア神話のように、前世で僕たちは一人の対をなす存在だったのではないだろうか?

ああ、僕たちはようやく心を穏やかな涅槃に至ったのだ。

僕にはもう肉体と精神という区別せえない。
踏みとどまる足が水の冷たさを感じているうちに、彼我を超えてひとつの心と体をもつに至ったのだ。


おしまい


大橋ちよさんの作品をお借りしました。
椎名ピザさんの「#カバー小説」という企画への参加作品になります。
よろしくお願いいたします😊。




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