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エッセイ | 勘定奉行・荻原重秀について

はじめに

 日銀総裁が10年ぶりに交代する。いわゆる異次元の金融緩和政策が、新総裁のもとで継承されるのか転換されるのか?

 そのような中で、3月23日の朝日新聞の記事では、黒田東彦(はるひこ)総裁と江戸幕府の勘定奉行・荻原重秀とを重ね合わせて論じていた。


荻原重秀とは?

 高校の頃、日本史を選択していたので、「そんな人もいたなぁ」と懐かしく思い出した。たしか綱吉の頃に活躍した人物。当時使っていた山川の日本史用語集が手元にあるが、次のように説明されている(読み飛ばしてもOKです😃)。

荻原重秀(1658~1713)

勘定役から勘定吟味役を経て勘定奉行。財政難打開のため1695年初の貨幣改鋳を実施。元禄小判など悪質の貨幣を発行し物価高騰。新井白石により1712年罷免。

日本史用語集(山川出版社)

元禄金銀

1695年、勘定吟味役荻原重秀の意見で、慶長金銀を改鋳して発行した金銀貨。慶長小判の品位84.2%を改めて57.3%に切り下げた元禄小判を鋳造するなど品位を落として貨幣量を増し、その出目(改鋳益金)で財政を補った。また十文の大銭(おおぜに)鋳造も計画したが、実現しなかった。

前掲書

 簡単に言えば、荻原重秀のおこなったのは、貨幣の質を落として、その差益を幕府の収入にしようとした、という説明である。そして、その結果として物価が高騰したと。

 では実際に、どれくらい物価が上昇したのか?
 村田淳志・金沢大学教授によれば、確かに元禄小判を発行した直後に米の価格は急上昇したが、それは冷害の影響が大きく、改鋳後の11年間を平均してみれば、年率の物価上昇は3%程度だという。
 現在の日銀のインフレ目標は、2%だから大差はない、と言っていいだろう。


貨幣改鋳は金融緩和政策

 荻原重秀は、新井白石が多額の賄賂を受け取っていたと書き記していることから、どちらかというと悪人のイメージがつきまとうが、当時の幕府が採り得た金融・財政政策を勘案するならば、必ずしも間違っていたとは言えない。
 改鋳することは、現代的な言い方をするならば、通貨供給量の増大である。現在の日銀がやっていることと、ほぼ同じである。
 1707年の宝永地震、その直後の富士山の噴火による復旧に伴う歳出増がなかったならば、「金融政策」としては成功していたと言えるかもしれない。


貨幣の裏付けは「信用」


 荻原重秀は、貨幣の質を落としたことで、新井白石をはじめとする後世の批判を浴びた。
 しかし、現在の「日本銀行券」(普通の紙幣)は、ただの紙切れである。
 小判はそれ自体に価値が含まれているが、我々が現在使っている紙幣を裏付けるものは「信用」だけである。
 誰も政府・日銀を信用しないならば、文字通り紙くずに等しい。
 現在の紙幣にあたるものがなかった江戸時代という時代に、重秀が「貨幣の本質は『信用』である」と考えていたならば、かなりの炯眼の持ち主だったのではないだろうか?


そもそも貨幣の役割とは?

 普段、お金はあって当たり前のモノだと、あまり意識しないが、経済原論の教科書では、一般的に次のように説明されている。

①「価値尺度」
モノの価値を表す尺度になる機能。
②「交換手段」
貨幣がなければ、物々交換できる相手を探すのに苦労する。貨幣が介在することで、交換がスムーズになる。
③「退蔵手段」
食糧だと、いつまでもとっておくことはできないが、貨幣ならば、使わないときは「溜め込んで」おける。

 現在でも、政情が不安定になったり、景気が悪くなると、ある通貨の価値が下がり、その通貨を持っている代わりに「金」に回帰する傾向がある。

 現在の貨幣は「管理通貨制度」である。信用に裏打ちされた紙幣の供給量をコントロールすることで、経済が成り立っている。


むすび

 歴史を学ぶとき、その当時の常識でその当時の出来事を見るという目と、現在からその当時の出来事を見るという目の「2つの目」が必要なのだと思う。
 現在の視点からみれば、荻原重秀の政策や、田沼意次の政策は、経済政策として筋が良かったように思う。
 E.H.カーは「歴史とは何か?」の中で、「歴史とは過去と現在の対話である」と言っているが、過去と対話しながら学ぶと、もっと歴史は楽しくなるように思う。


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