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分からないなりに数学を楽しむこと。

(1) 有限と無限

 数学というと、厳密な証明の上に成り立つ学問というイメージがある。実際そうなのだろう。
 「フェルマー予想」は、ワイルズ博士によって証明されて「定理」となった。しかし、証明される前から、少なくともコンピュータで計算できる範囲では、反例がなく、フェルマー予想は正しいだろうと思われていた。

 フェルマー予想に限らず、数論・整数論においては、かなり大きな数になってから予想が覆されることが多い。どんなに優れたコンピュータでも、有限の数の処理しかできない。数は無限にあるため、「どんなにこれ以上探しても、この式を満たす組み合わせはない!」と言い切るためには、厳密な数学理論が必要とされる。「無いものは無い!」と断言することはそれほど難しいことなのだ。


(2) 「厳密」と「いい加減」

 ふだん、数学者ではない一般人はどのように判断を下すか?
 数学的に言えば、「0.01」と「0.1」との間には大きな隔たりがある。
 「1➗0.01」 と「1➗0.1」とでは大きく結果が異なる。しかし日常生活では「0.1」も「0.01」も、ほとんど「0」と同じだと判断する。数学では「1➗0」なんて計算したらとんでもないことなのだが。
 しかし、だから「厳密な数学が必要だ」と言いたいのでは「ない」。

 「数学は数学、日常は日常」と考えることがあってもいいのではないか?

 例えば、あなたが困難な手術を受けるとしよう。
「99.99%の確率で手術は成功しますよ」と言われれば、「ほぼ間違いなく(100%)手術は成功する」と思う。
「0.01%の確率で手術は成功しますよ」と言われれば、「ああもう無理なんだな。望みはない」と思う。

 数学者ならば、証明に不備がありすぎるようでは信頼を大きく失うことになる。数学は厳密な学問だから、誤りの多い論文を書く学者は信頼されない。
 しかし、一般人ならば、厳密な証明に必ずしも興味があるわけではなく、まぐれ当たりであろうが、「正しい答え」が出てくれば楽しい。なにも一般人までもが「厳密」を追求する必要はないのではないか?「厳密さ」を求めるのは、学習が進んでからでもいいのではないか?


(3) 虚に虚を重ねると実になる?!

 ここからは私の実体験を書いてみる。

 まだ読んでいない何か面白い本はないかなぁ?と思って、図書館をブラブラしていた。今日は特に読んでみたくなる面白そうな小説はなさそうだなぁ。読みたい本がないならそのまま帰ってもよかったのだが、せっかく来たんだし何か借りていこうと思い直した。
「そうだ!たまには理工系の本でも覗いてみよう!」

 それで大した目的もなく、なんとなく数学の本が置いてあるコーナーへ向かった。とその時、真新しい「図鑑」が目に止まったので、中身をパラパラとめくってみた。

「虚数を虚数乗すると実数になる!」というような文言が目に飛び込んできた。
i の i 乗の実数の値が記されていた。図鑑だから、証明は載っていなかった。
 i を i 乗するなんて考えたことがなかった。検索すれば証明も出てきそうだが、ちょっと自分で考えてみたくなった。「答え」は分かっているのだから、気楽な気持ちで取り組んでみよう、と思って家に帰った。


(4) 「証明」に取りかかる?!

 「虚数」に関する私の知識をイロイロと「脳内検索」してみた。楽しむのが目的だから、数学書を広げることはしない。「答え」は分かっている。間違えていようが、それはそれでいい。何とかして「答え」までたどり着ければ。。

「i の i 乗」と紙に書いてみたが、何をすればいいのだろう?

 とりあえず「i」(虚数)が入っている公式を思い浮かべてみた。
 そういえば、「オイラーの公式」ってあったなぁ。。。

オイラーの公式

とりあえず、右辺の「isinθ」のところを「i」だけにしたい。
つまり、「sinθ=1」にしたいのだから、「θ=π/2」をオイラーの公式に代入してみよう。

i の i 乗を求める。

おおお!
虚数の虚数乗がホントに実数になった。
ここまでくればあとは電卓で計算できる。
電卓をたたくと、だいたい「0.2」の値が出てきた。図書館でチラ見した答えと同じだ🙌。


(5) ところが🧸。。。

「ところが🎵熊さんが🎵あとから🎵ついてくる🎵」
 
 答えそれ自体は、おそらく間違いないだろう。
 私は、自分の解答が終わったあと、一応、ネットで検索して確認してみた。

 求める答え自体は間違いなかったのだが、私の「証明?!」は、「間違いの典型例」として挙げられていた!!!

 難しいことは分からないが、こんなに単純ではないらしい。

 いまだに答えは分かっても、それに至るプロセスは正直に言って「分からない」。


結び

 数学の歴史というものをキチンと勉強したことがないのだが、数学の「定理」というものも、生まれた当初は「直観」が先なのかもしれない。

 論証に論証を重ねて見いだされた「定理」もあっただろうが、ポ~ン♟️と最初に結論がひらめいてから、あとから厳密な証明を考えるというのが普通なのかもしれない。「ひらめき💡が先、理屈は後から」みたいな。

 繰り返しになるが、数学はレンガを積み重ねるように、確固とした土台の上に構築されていく建造物のようなものだ。証明の中に、どこか一ヶ所でも穴があれば、「証明」とは言えない。

 しかし、数学者として数学するのではなく、「娯楽」として楽しむ数学というものがあってもいいはずだ。最初から「こうじゃなくちゃダメ」と言っていたら、いつまでたっても一歩踏み出すことができない。
 「いい加減な気持ち」で向き合うことも大切ではないだろうか?




 


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