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エッセイ | 本棚の整理

 本というものは、いったん買うとなかなか手放せない。一度読んだら、誰かにあげるなり、捨てるなり、売るなりと、簡単にできる人もいるようだが、私にはなかなかできない。
 
 おもしろくて一気に読んだ本は、また読んでみたいと思うし、つまらなくて2、3ページで投げた本は、まだ読んでいないところが多いから、一応手元に置いておきたい。結局、どんな本であれ、たまっていく。

 といっても、私は多読家ではない。最近は一冊の本を、最初から最後まで読むということが少なくなった。
 小説であれ、新書ならばなおさらのこと、前書きから後書きまですべてを読まなくてはならないという義務はない。SNSに自分で文章を書くようになってから、そういう気持ちが強くなった。

 一方的に「読む」という立場から、自分で文章を「書く」という立場へ身の置場所を転換して考えてみる。本当に書きたい・伝えたいメッセージは、要約すれば400字以内にだいたいおさまる。文章がそれよりも長くなるのは、言い切ってしまうと誤解をうむ可能性があるから、色々と制約条件を書いてみたり、自分の前提とする条件を書き連ねたりするからだ。換言すれば、書いた文章の大半の部分は「言い訳」で水増しされたものである。

 だから、他人の文章を読むときは、その著者の核心をなす部分を正確につかみとりたいと願う。しかしながら、もしかしたら私が核心だと思った文章は、「水増し」の部分の可能性がある。だから、好きで面白いと思った本でも、とんちんかんなところで感動していたのかもしれず、つまらない本でも本質的ではないところで「つまらない」と思い込んでいるのかもしれない。だから、再読の機会が巡って来るまで、本は捨てられない。

 ここまで書くと、一冊の本も処分できないではないか?と思うかもしれない。そう、邪魔にならないのならどんな本でもとっておきたい。しかし、それではキリがないので処分しなければならない時がある。


処分する基準。

①買っても三年以上一度も開かなかった本。
②手放しても容易にまた購入できそうな本。
③読んでも、まったく線も引かず、付箋を貼っていない本。

ここに付け加えるならば、いわゆる「ハウツー物」。今はもう存在しないゲームの攻略本みたいな本。

 この基準でだいたい後悔はないのだが、あとになって処分しなければ良かったなぁと思うこともある。
 特に古い学術書や参考書は、今では使えないというものがあるが、その当時の正統的な考え方というものは、ネットでも調べられなかったりする場合がある。ネットというものは、過去のことには意外と弱い。現代の立場から書かれたものが大半である。
 現在から見ると「間違っていた!」ということも、「そういうふうに当時は考えられていたんだ!」と振り返るのは、意外と楽しい。何の役にも立たなくても。


 どんな本でも最初に「読みたい!」と思った瞬間があるから買うのだが、忙しくて読めなかったり、そうこうするうちに興味が別のことに移ってしまうということもある。
 それは単に気分的なものであったり、自分の年齢と作品がシンクロする時がまだ先だったり、もうすでに過ぎていたり。

 いずれにしろ、生きることは本を買うこと、積ん読が増えること。仕方ないですよね。



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