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素敵な文章にふれて

 何かを書こうとする時、例えば今なんてのはノートパソコンでカタカタ打っているわけですが、昔はこのような手元にありませんでした。子どもの頃に文章を書くと言えば原稿用紙でしたし、けれどあれは、まあ苦役でしたわね。子どもなんてそんな思慮深くはない(目を見張る洞察がある)し、つぶさに何事かを思惑的に考えるなんてことより、めまぐるしく移り変わる目の前のきらびやかな世界のエンターテイメントに魅了される連続なんですから。これを胸に感じて面白味を実感することで精いっぱいです。そのように書かれた本を読んだことがあります。
 確かに、原稿用紙に向かってHBかそこらの鉛筆を握りしめ、つつましく数日前の経験の感慨を追憶して、文章に書き連ね、その想起が今の自分へ還り、この時に思う内省的なことまでを交えて、どこの子が書けるっちゅうねん、とお上品にも言いたくなります。
 その結果、僕たち皆は同じ道を辿ったのです。「今日僕は~」「~と思いました」「楽しかったです」を連発して水増しする。

 しかしですね。子どものおもむくままに率直に表された文章には光ものがあると思います。昔と現在の子では、その文章の率直さに明らかな差があるのではと思うのですが、このような詩はどうでしょうか。

父と
兄が
山からかえってきて
どしっといろりにふごんで(ふみこんで)
わらじをときはじめると
夜です

『山びこ学校』無著成恭編(岩波文庫)

もう一つ、お母さんが病気で入院する場面です。

 それで、僕はばんちゃと、医者と叔父さんの四人で、まず、あつかい(看護)に行く人の相談をしました。で、ばんちゃは「江一をはなすと仕事をする人が誰もいなくなるからツエ子よりほかにない。」といったので、ツエ子が行くことにきまりました。ツエ子は小学校の五年生です。ちっちゃいのです。しかし、しかたがありませんでした。それで、医者は飯を食って帰ってしまったし、午後から僕とばんちゃは入院の用意にとりかかりました。
 次の日、叔父さんがリヤカーをかりてきてくれました。雨が降っていたので小降りになるまでお茶をのんで、それから出かけました。ふとんをつけて、お母さんをのせて、なべだの野菜だのといったものをうしろにつけて、お母さんにはあんかをだかせて、油紙をかぶせて、からかさをささせて出かけました。

『山びこ学校』無著成恭編(岩波文庫)

『山びこ学校』は「山形県山村中学校の教師、無着成恭がその成果をまとめた詩・作文集」だとあります。僕の知る、僕らが学生だった頃の作文とはずいぶんと出来が違います。もちろんなかには素晴らしいものを書いていた人もいたでしょうが、それでもやはり違います。では、その違いは何でしょうか。それは実経験を書きたい、あるいは書こうとしている思いが染み込んでいて、この文章からそこはかとなく立ちのぼっているように感じるから凄みを感じるのではないでしょうか。美しくさえあります。上記は抜粋ですが、全文では文章量もそれなりにあります。書きたいことがあって、書いているのです。少なくとも、切に迫った題材(経験)があるのです。ご興味のある方はこの本をお求めになられて、読んでみてください。無量のしみじみとしながらも、ことほどまでに素晴らしい文章があるのかと感動するでしょう。巻末の無著先生のあとがきもとても良いです。

 僕たちの作文はこのようではなかった。少なくとも僕はそうではなかった。水増しのオンパレードで小器用に小賢しくそれっぽいことで埋めて提出していました。何より、まったく楽しくないのですから悲惨です。そうなると、文章を書くという行為に暗いものが垂れ込めるのです。それではよくありません。

 中学の頃、友達とふざけ半分で「みんなで自作の小説書こうや」ということになって、しぶしぶながら書くことになりまし。しかしこれが僕の転機でした。自作で、しかも物語を作って書くという設定によって、四肢の枷がはずれたのでしょう。書き始めると脳天に稲妻をバッシャーンと浴びました。これまでの強いられた読書感想文や作文全般とはまるで違う文章体験がそこにあったのです。すでては自由でした。ちんけな天然パーマのオツムから空想がはじけて膨らみ、どのような人をも、出来事をも、世界をもそこに展開できるのでした。それも紙とシャーペンだけで。『山びこ学校』の作文を読んだ時に、この時の感覚が蘇ってきました。当たっているかは不明ですが、彼らが実体験としての文章をつむぐ時、斜に構えた憂さがあったのかなかったのかはわかりませんが、ただ実直に素直に文章としてあらわしたのだと思われてくるのです。そこに、この作文のリアリティと面白ろさ、全体から醸し出される本物の文学を感じるのではないかと思うのです。

 話は少し変わるのですが、当時に戻って原稿用紙で書いてみようとしていくつか家に揃えています。懐かしい原稿用紙です。さあいざ書こうとすると、まるで書けません。一度お試しになってもらいたい。書くのが非常におそろしいです。これはデジタルの弊害でしょう。デジタルでは書く行為そのものがお気軽なのです。間違えたら消せますから。挿入だってお手のものです。頭に浮かんだものを考えることなく瞬発的にタイプしていきます。その良さもあるでしょう。しかし、原稿用紙には書けなくなっています。抵抗感が非常に強い。これははじめから清書の心持ちになっているためと思われます。消せない、間違いは即書き損じだと。パソコンであれ出だしは四苦八苦し、書き直すこともしばしばなのに、原稿用紙の初っ端でとち狂った一文を書いたならもう最後、原稿用紙を汚してしまったとして嫌になる。ありがたい満寿屋の原稿用紙となれば惜しくて惜しくて堪らないのです。これは精神的なものでしょうが、媒体の特徴も一役かっているでしょう。

 しかし、何かで読みましたが、人間などペンで書きつけるまで自分が何を書こうとしているかなど、真には分かっていないのです。確かにそうだと思います。これはベタなマジックで口から延々と引き出される万国旗のようなもので、次には何が出るかわからない連想のような作業なのです。当然、考えは考えとしてどこかで働いているものですが。しかし、今まさにこの行に何を書こうとしているかなんて分からないものなのです。今一行目を書こうとするときに、二行目三行目先の文章とそのディーテイルが決まっている人など果たしているのでしょうか(いたらごめんちゃい。あなたは素晴らしい。飴あげる)。となれば、お綺麗な原稿用紙にはじめのペンを走らせる場合も、こんなものは下書きにすぎず、瀕死の鳥の雛の介護よろしくやる必要はないのです。つまり、原稿用紙を汚せ、ということでしょう。そうなれば、満寿屋の原稿用紙もチラ裏も変わりません(変わるけど)。

 つまりはですね、自分の書きたいものを持ち、本心から思わない空想ばかりに遊んぶのではなく(大切ではありますが)、似たり寄ったりの嘘で均さず、実際をモチーフにして書かれた文章は、真に迫るものがあると読んでいて感じるのです。嫌々書くようなものではなく、自分にだけに書ける書きたいものを見つけてそれを書く、それが文章を書くことに対する解放であり、前向きで創作的な推進力になるのだろうと思います。

『山びこ学校』は非常に素敵な本です。過去に『きけ わだつみのこえ』を読んだ時、納められているのは戦没学生の手記ですが、胸がえぐれるほどの悲しさと憤りを感じながらも、その隣で彼らの非常に実に迫った素晴らしい文章を発見しました。この年齢でこのような文章を書いたのかと、、、いえ違いますね、彼らは文章を書いたのではなく、実際の経験と実際の思いを書いたのです。『山びこ学校』の冒頭でも、『きけ わだつみのこえ』について触れられています。後者は惨劇のいたましい本であるとしています。一方、前者はこれからの再建をめざすといった言葉がしたためられています。


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