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人間は自由に生きれるほど賢いか

 インターネットの普及により、理論上色々な情報に自由にアクセスできるようになった。フリーランスという働き方によって、会社に縛られなくともお金を稼げるようになった。世話焼きおじさん世話焼きおばさんの消失とともに、自由恋愛からの恋愛結婚という方が一般的になっている。
 世界は自由な方ヘ歩みを進めている。そう思っていた。しかし、果たしてそうだろうか。
 インターネットやSNSは、自由に情報を集めたり、色々な考えを知れるという印象だった。だが、フィルターバブルとかエコーチャンバー現象とかサイバーカスケードとか、謂わば自分の考えを増幅するだけになってしまう一面がある。結局自分という枠組みに縛られて、非自由なのではないかと感じる。
 フリーランスという働き方は、自由な時間に仕事ができて、自由に仕事が選べて…。そんなのは理想形だと思う。立場が弱かったりすると交渉ができなくて、仕事は選べず長時間働いているという話を聞く。専門性とかその人にしかできない能力だとか、結局そういった力のある人間が自由な働き方ができるという、当たり前で現実的な結論が見えてくる。
 結婚は家と家という形から、個人と個人における自由恋愛の最終形態という形に変わった。だが、皮肉にも恋愛結婚の方が見合い結婚より離婚率が高かったり、恋愛結婚は10年後には満足度はかなり下がり、見合い結婚は年数を経るにつれて満足度が上がり、逆転するというデータがあったりする。
 面倒なシガラミや世間体というものから逃れたはずが、結局不満を抱えたりする。一体この状況は何なのか。

 自由は能力だと思う。
 理論上自由であっても、人は自分という枠組みからはなかなか自由になれない。私は、人は自由になると本能的になってしまうという仮説を吟味している。SNSに没頭したり、噂に右往左往したり、糖分を異常に摂ったり。そういった行動は本能に近い。そういうものがマーケティングに利用される。謂わば操られているのだ。それは自由だろうか。だからこそ、本能や自分の癖から逸脱できる能力が必要なのではないか。
 自由は能力だと思う。
 自由に仕事ができる。これは能力ありきの話である。ならば、社会が特別自由になったかというと、そうではない。自由である人間は自由であり、自由でない人間は自由でないという今までと変わらない、自明の論理なのである。だから、自由には能力がいる。
 自由は能力だと思う。
 自由恋愛をして、最終的に結婚するというのは、人間の本能から逸脱している。フェニルエチルアミンは数年で分泌されなくなる。それでも、恋愛結婚して幸せを望むなら、関係性を徐々に変えていく必要がある。それにはコミュニケーションとか、相手を気遣うとか、色々な能力がなければ、厳しいと思う。
 自由を与えるのは、制度でも思想でもなく、単純に能力だと私は思う。賢くないと自由にはなれない。そして、私を含め、多くの人は自由を謳歌できるほど賢くないと思う。
 

 

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