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現実と虚構―創作物を楽しむために―

パーソナリティの問題を何かしら抱える人は「現実検討能力」が低い……といろんな本で目にしたことがある。

しかし実際にはその言葉の指し示す内容は漠然としか分からず「そういうものなんだな」としか思えていなかった。

そんななか「ああ、こういうことだったのか」と納得できる具体例を見つけた気がしたので、書き残しておきたい。

現実性の確信とは

人間は現実世界を生きている。
一方で劇や小説あるいは漫画はフィクションであり、虚構の世界である。

自己心理学者・コフートは「芸術上の作りごとの現実性に没頭するためには、少量の安定した自己備給をもっていなければならない」と述べた。

言い換えるなら「創作物のリアリティに没頭するには、多少なりとも安定して関心や注意を向け、情動的なエネルギーを注げる自己をもっている必要がある」といったところだろうか。

コフートは「劇」の鑑賞を例に挙げ、以下のように述べている。

自分自身の現実性を確信していれば一時的に自分自身から転じて、舞台上の悲劇の主人公とともに苦しむことができる

(日常生活の自分自身の現実性と、劇にかかわる情緒の現実性とを混同する危険性はない)
ハインツ・コフート『自己の分析』より要約

現実は現実と認識しつつも、創作物上の登場人物にほどほどに感情移入ができる状態に近いかもしれない。

ここでの「自分自身の現実性」とは「現実感覚が比較的そこなわれていない状態」と同義であるとされていた。

実体として存在する身体も、本来的には目にはみえない精神(心)も「自分のものである」と確信でき、「現実を生きている」と実感できる状態とも言えそうだ。

※精神状態は「しんどい」と言語化することで可視性を帯びると思う。

(たとえば発話の形では声の調子や身振り手振りにより、記述の形ではこのように文字の力や「…」や「!」などの表現法により「しんどい」という情報に可視性が与えられ、自分の精神状態が他者と共有可能な「モノ」になる)

話を戻そう。
では「現実感覚の不確かな人」が創作物に触れるとどうなるのか?

不確かな現実感覚がもたらすもの

コフートは先ほどの劇の鑑賞を例に、以下のような見解を示している。

現実感覚の不確かな人はたやすく芸術的体験に身をまかせることができない可能性がある

(今見ているのは劇に「すぎない」とか、芝居に「すぎない」とか、「現実ではない」などと自分を守るための「言い聞かせ」が必要かもしれない)
ハインツ・コフート『自己の分析』より要約

毎回ではないものの、私には身に覚えがある状態だ。

・創作物上の登場人物に過剰に感情移入をしてしまい、作品に触れたあと放心してしまう状態

・登場人物の苦しみに共感しすぎて気分がしばらく暗くなり、日常生活にも影響が出てしまう状態

……などが当てはまるかもしれない。

読むと気持ちが暗くなるが繰り返し読んでしまう漫画に対しては「大丈夫、これは現実ではないからね」と自分に言い聞かせたこともある。

思えばこうした状態は「現実を生きているはずの自分」が虚構の世界にどっぷり呑み込まれて現実に回帰できなくなっている状態、さらには「現実と虚構の区別がついていない状態」と言えるだろう。

まさに「現実検討能力が低い」実例である。

現実検討能力の改善にも自己愛の成熟の問題がかかわってくるらしいが、今回はそこには触れない。

創作物を創作物として純粋に楽しむためにも自己愛の問題に取り組んでいきたい、と改めて思った。

虚構に旅立つ心境を表す、ゲーテの詩

最後に、これから始まる劇に熱中しようとするときに起きる「自我の状態の変化」を表現しようとしたゲーテの詩に魅力を感じたので紹介したい。

わたしがいま現実に見ているものは遠い世のことのように思われ、
すでに消え失せたものが、わたしにとって現実となってくる
ゲーテ『ファウスト』の献辞より(手塚富雄訳)

自分が生きる現実から関心を撤収し、創作者が心血を注いでつくりあげた虚構の世界に飛び立つ……。

そこでは自分の過去に通ずるように思えるものや、見聞きしたことがない未知のものを経験できるだろう。

創作物に没頭しようとするとき「日常という現実」が遠ざかり、創作物こそが「自分の現実」であるかのように目の前にやってくる――

創作物のリアリティに心を奪われたあとは、現実に回帰するのを忘れないようにしたいものだ。

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