キウイを食べる0歳児

日常は、悲しい時だけではない。難しいことばかりでもない。わくわくすることだけでもない。
ルーティンワーク、習慣、癖、その中で時々ほんの少し、緊張したり弛緩したりする時間がある。スナップショットみたいに撮って保存できたら良いのだけれど、すぐに通り過ぎて忘れていく。忘れていくから良いのかもしれないけれど。それが成長というものなら。

0歳児はまだ0歳児にもかかわらず、ハイハイで自在に動き回り、見たものをなんでも触ってみる。つかまり立ちでローテーブルのものをなんでもつまんで口に入れる。

動く0歳児といると、テレビのリモコンがないと思ったらおもちゃの箱に入っていることがある。昨日までは従順に食べた納豆を今日は口から出して両手で揉み遊ぶことがある。その納豆の手でハイハイでどこまでもいくことがある。カーペットに納豆のつぶがある。

先日、チームリーダーの男性と雑談をしていて、「共働きは大変」という言葉が口を滑った。リーダーの娘さんはもう大学生、リーダー自身は共働きの大先輩だ。「きっとお嬢さんも仕事して、出産したりしたら、大変だと思う」みたいなことを口が滑って言ってしまった。

「え、そう?具体的になにが大変?」
その返答に私はしばし固まった。

毎日の生活の大変さは、当然共有されていると私は思っていたみたいだ。そうか、共有されていないのか。
具体的に、とっさに言えなかった。第一子を産んでから、復帰してから、何もかもが大変だった。復帰して一年ほど絶望感があった。
第二子での復帰での大変さはまだまだこれからだけど、きっと、当たり前のように、大変だと予想している。
だけど、具体的になにが大変かというと、とっさに出てこないのだった。テレビのリモコンや納豆にはじまる膨大な小事件に日々、毎時、毎分、突発対応し続ける、それが24時間続きうる。その上社会は子どもや共働きフレンドリーでない空気がある。こうした膨大な小さいあれこれが蓄積しての、結果、「大変」なのであった。

もしかしたら「具体的になにが大変?」というセリフそのものも大変のうちのひとつかもしれない。大学生の娘さんと仲良し、共働きの大先輩、家では良いパパ感あふれる、優しい雰囲気の50代。きっと共有しているだろうと勝手に期待してしまったけれどやっぱり共有されていないのだ、という再認識。説明できないあれこれ。

納豆はもう嫌いになってしまったみたいなので、一口大に切ったキウイをスプーンで0歳児の口元に持っていく。口に入れた瞬間に笑顔が弾ける。それから目をぱあっと大きく開く。表情が生き生きと輝いている。
もう一口、キウイを口元に運んでやる。口をそれはもう大きく開けて待ち構えている。
意地悪くしばらくそのままスプーンを止めていると、口のほうがスプーンにダイブする。口に入れた瞬間から、咀嚼するあいだもどことなく笑顔で機嫌がいい。見ているこちらまで美味しい気分になってついニヤけてしまう。

リモコンと納豆とキウイ、そんなことが繰り返される日々だ。大変だし、共有されない。でも同時に微笑ましく、ときどきニヤリと弛緩する。

子供のいる日常とはそういうものなのかもしれない。大局的に見てきわめてまっとうだ。

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