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受験戦争

平日昼下がりの喫茶店は、それなりに混雑していた。パソコンを開いて仕事をしている若い男性。噂話に興じる女性グループや、文庫本を読む中年男性といった客層の中に、いつもは見かけない、小学生らしい男の子と、その母親が丸いテーブルを挟んでいた。細身の男の子は、薄緑色の表紙の薄い冊子のようなものを広げ、その前で首をひねっている。母親は少しカラーリングの入ったショートボブの、若く見える女だった。

見るともなく、その二人のほうに目を向けると、2人の会話が耳に入ってきた。

「……そうじゃないでしょ? 太陽がこっちからあたってるんだから、この月はどっちが明るく見える?」

僕の胸が、ちくりと痛んだ。もう20年も前のことなのに、今でも昨日のことのように思い出す。サボっているのがバレないように、馬鹿だと思われないように。ただ、それだけを考えて過ごしていた日々。唇を噛み締め、母親の言葉が頭上を通り過ぎていくのをじっと耐えている男の子の顔を見ると、その頃の自分の心境が、ありありと思い起こされた。勉強がつらいとか、嫌だというわけではなかった。ただ、なぜお母さんがこれほど怒るのかということが理解できず、怖かった。

……いけない。今はそれどころではないのだ。僕は入り口近くに置かれたスーツケースにちらりと視線を送った。混雑時に席の横まで持ち込むのははばかられるサイズだったので、入り口脇に置かせてもらったのだが、常に視界に入っていないと心配だ。何しろ、僕の人生最大の勝負が、あのスーツケースにかかっているのだから。

僕は背もたれにもたれると、頼んでいたアイスコーヒーに口をつけた。しかし、背後から聞こえた大きな物音で、すぐにグラスをテーブルに戻し、振り返った。物音は、あの母親が勢いよく席を立つ音だったようだ。文庫本を読んでいた中年男性が、少し顔を上げ、また視線を本に落とす。

「……もう! あなた理解する気がないでしょう!!」

母親はハンドバックを持ち、トイレに向かった。その足取りは、まるで漫画のように苛立ちを表現していた。男の子は青ざめた表情で両手をテーブルの下に下ろし、俯いたまま、唇をかみ、真っ白なプリントを睨んでいる。

やれやれ。あの母親が、あの子の胸のうちに目を向けることは、たぶん一生ないのだろう。何だったら彼女は、この子のため、と思ってああいう言動を取っているのだから。彼が感じているのは、見捨てられるという不安だけなのに。

僕は、一口つけただけのコーヒーに視線を落とす。もともと、コーヒーはそんなに好きじゃない。何も頼まないというわけにはいかなかったし、できるだけ目立ちたくなかったから注文しただけだ。僕はトレーの上に、なみなみとアイスコーヒーの入ったグラスを乗せ、席を立った。「返却口」と書かれた棚にトレーを置き、入り口へと歩いた。

店を出る前になんとなく、例の親子のほうを振り返った。母親はトイレから戻って、男の子の向かいの席で、腕を組んでいた。背中からも、勉強に取り掛からない子供への怒りが収まっていないことは容易にうかがうことができた。

そのときだった。俯いていた男の子が顔を上げ、僕と目が合った。泣き腫らして赤くなった男の子の目には、僕がとうの昔に失った、命のエネルギーがあった。僕はなぜだか、大きくうなずいていた。男の子は数秒ほど、不思議そうにこちらを見た後、両手をテーブルの上にあげて、鉛筆を持った。母親の肩にこもっていた力が少し抜けたことがわかった。

僕は、入り口の扉の横に置いたスーツケースに目をやった。中には、この店舗の8割を燃やし、中にいる人間のほとんどの命を断つか、少なくとも再起不能にするだけの火薬と釘やボルトが詰まっている。

僕はふうっと小さく息を吐くと、スーツケースのハンドルを引き出した。そしてハンドルをぐっと握りしめると、45度の角度に傾けて、ハンドルを引き、自動ドアの前に立った。自動ドアが開くと、熱気の籠もった空気が店内に流れ込み、後ろから、来店の礼を伝える店員のさわやかな声が響いた。


※この作品は「アイデアを形にする教室」での「掌編小説の作り方」の参考として制作したものです。

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