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空回り

特にメンタルヘルスのひどかった頃の話をします。
実体験を綴るだけですので、興味のある方のみご覧ください。



20代前半で大変ショックな出来事があり、不眠からアルコールに逃げる→対人恐怖もあり仕事に行くのが辛い→辞める→生活のため新しい会社へ就職の無限ループで、リセット癖のついた時期がありました。

職務経歴書は2年以上いたところのみ端折って書き、空白の期間はバイトをしていたことを伝え、面接を通過していました。
ひどい時には半年で仕事を3回ほど変えた時期もあり、全てを記せば職歴という名の巻物の完成です。
無職でどうしようもない時にはチャットレディで生計を立て、夜のお店の体験入店に行ったこともあります。(柄ではなく日和って断った)
不甲斐なさのあまり、家族や付き合いの深い人にさえ仕事やお金、その他の相談はせず精神科に通ったりと秘密まみれの人間になっていました。


欲張りの結果


27歳を過ぎた頃、何もかもなかった事にしたくてたまりませんでした。
仕事と住居を同時に一新すべく、派遣で住み込みの仕事を選びました。
ある程度制限のある環境の方が、簡単に仕事も辞められないだろうと考えての決断です。
主に家賃と税金の支払いに骨を折っていた私には、これ以上ない仕事です。
家具家電は全て売り払い、服を3着持ってアパートを後にしました。
新しい仕事はホテルのフロントです。
首元には自由にスカーフを巻くことができます。
綺麗な制服での仕事には憧れており、テンションが上がっていました。
しかし、この通りまともな精神状態ではないため、仕事は2週間も持ちません。

慣れないパンプスで立ちっぱなしの勤務に挫け、上司の承諾を得て和室の休憩所で脚を伸ばしていました。
そのとき隣の休憩所にいた「色んな人にあだ名で呼ばれる謎ポジションのおじさん」の一言が辞める動機になりました。

「また派遣増えたんやろ?
上の奴は正社員の中から給料増やすべき人間見極めなあかんよなー」

最新の派遣社員は知る限りでは私のみです。
この職場では、派遣社員が彼のいうような見方をされていると決めつけ、翌日からは出勤ができず、派遣会社の担当者へ辞めることを伝えました。

家のない私はそのまま約8年振りに実家に戻ることとなります。


人に左右される自身が心底嫌だった


私は生きてた四半世紀ちょっとの大半が「身の振り方は、人次第」でした。
無意識下でのスローガンになっていたと今では感じます。
自身が人に否定されることを何より恐れていたため、少しでも不和を感じる環境には身を置けません。
気の休まる場所は自身のアパートのみで、それ以外の場では常に「誰か」に気を遣っていました。
そのため休日は心配事を頭の中で巡らせたり、睡眠だけで潰れたこともあります。

さて、人の目を気にしての高校中退、失恋、見栄で決めた就職先など、次第に私は他人次第でアップダウンする自身の性格と人生がアホらしく感じ始めます。
だから、全て逆をいこうと本来の自分に必死で抵抗していました。
当時の私は「不安の材料となり得るものは断ち切る」と言う極端な思考に至っていました。
そして何をしていったのかを箇条書きにしてみます。
危険なので真似しないでください。
手元に残る当時の恥ずかしい日記を確認し、泡を吹きつつ書いていきます。

度が過ぎたことをしていた

  • 全てのことの断捨離をする

  • 使う物以外全て処分。判断基準は使うor使わないのみ

  • 写真、プリクラ、学生時代の日記は全て処分。母と親友にもらった手紙のみ残す

  • 一年以内に連絡を取り合った人、仕事で必要な人のみ連絡先を残す

  • そのため、10年来の友人のLINEさえ躊躇なく削除

自分の好き嫌いさえも曖昧でした。
曖昧さを残せば、この断捨離は意味のないものになってしまいます。
ですから確実なものにしようと、感情を無にして切り捨てていきました。
うん、思えばとても怖いことですね。

地元の友人とは半端に繋がることで自分と比較してしまう原因になるとみなし、連絡先を全て消しました。
人から忘れられたいです。
残念なことに、今どこで誰といるのかは家族伝いで知られてしまう状況ではあります。

ただ、本音を言います。
成人してからも付き合っていた子については例外で、後悔している自分がいます。
ふと話したいと思ったときには遅いです。
連絡してみようか迷っているけど、返事がなかった場合のことを考えてしまい動けていません。

変えてよかったこともある

  • 大人しくしているメリットが少ないため、言いたいことをはっきり言う

  • 発声の仕方、話し方をなるべく言い切る形にする

  • 姿勢は良すぎるくらいにする

  • 話す相手の目を見るのは疲れるため、口にする

  • 私服の制服化

外見や印象の面では、変える努力をしてよかったです。

発声などを気をつけるようにしてからどういう訳か初対面の人に、もしかして学校の先生ですか?と聞かれることが多いです。
深読みはせず、だらしなく見えるよりいいと捉えています。
自分が心地よいと思える姿勢や話し方を手探りで模索しました。


今となってはどれも笑い話で、秘密にしていたことも経験として話すようになりました。
この経験がなければ、今より無難な味の薄い人間になっていたかもしれません。

大事にしたい考え方


生殺与奪の権を他人に握らせるな!!

吾峠呼世晴『鬼滅の刃』より

突然ですが、好きなセリフの第一声を。
鬼殺隊の水柱・冨岡義勇が主人公の竈門炭治郎に放った言葉です。
本作が流行り出した時、自分の手で人生の舵取りをしなくてはと意識を変え始めていた私に心にもしっかりと響きました。
冨岡さんは、この後も耳の痛いことをたくさん言ってくれます。
多くの人を鼓舞する重みのあるセリフだと感じます。


終わります。また書きますね。


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