高野洸『チクタクタ』へのジレンマ
困った。
とっても大好きな曲なのに、共感しすぎて苦しくて聴けない……
そんな曲に久しぶりに出会っている。
わたしの贔屓にしているアーティスト・高野洸の『チクタクタ』という曲だ。
この『チクタクタ』は、2024年1月30日にリリースされた、高野洸8thシングル『ex-Doll』のカップリング曲のひとつである。
おいおい1月リリースてあーたもう3月だぞ……?とは思いつつ、いい曲って、初期衝動よりも、後からじわじわと尻あがりに心に染みわたっていく魅力があると思いませんか、思いますよね(圧)。
高野洸8thシングル『ex-Doll』には全3曲が収録されているが、1ヶ月半ほど経った今、結果として心の奥深くにささっているのはこの『チクタクタ』かもしれない。
それは、3月という切なさに抗えない季節柄と、「優柔不断」についてのわたしの個人的な体験が要因にある気がする。
この曲、まずもってトラックがはちゃめちゃにかっこいい。
冒険心をくすぐるような展開の仕方や、遊び心のある細やかな音の差し込み方、とにかくずっと耳がたのしい……!
それから個人的には、この『チクタクタ』のビートの音色が大好きだ。
素人ながらに勝手に「濡れている」と感じている音で、この音が入ってる曲は、軽率に好きになりがちだ。
まあテクニカルなことは全く分からないのだが、好きな音がたくさんあって何度聴いても飽きない曲である。
ちなみに、この多才なトラックはシャリ氏制作である。
さて、冒頭に書いた「共感しすぎて苦しい」というのは、もっぱら歌詞の話だ。
この曲は、「優柔不断」をテーマに歌っている。
この↓インタビューによると、
高野洸は、
と『チクタクタ』について語っている。
で、だ。
あたしゃ聴けば聴くほど、
「あたくしのこと言ってます?」
くらいの勢いで共感の嵐におそわれていて、困っているのだ。
自分と切り離しておけない、単純な音だけで楽しむことができない。
意味が入ってきすぎて、心がザワザワと大きく動いてしまうのだ。
(一応ほめ言葉のつもりで書いている。)
優柔不断。
わたし自身、自他ともに認めているくらいにはけっこうな優柔不断である。
と同時に、優柔不断であることを、何度も何度も怒られてきたし、笑われてきたし、あれこれ迷うたびに急かされ、他人をイライラさせ、困惑させたりしながら生きてきた。
優柔不断であることは、いけないことなのだと、迷惑をかけてしまうのだと思い知らされてきたし、いまだに優柔不断な自分を情けなく思いながら生きている。
実際はそんな思い詰めることもないのかもしれない……とぼんやりと頭で考えることはできる(願いも込めて)。
でも、わたしはいまだに「優柔不断な自分」を自分で許せていない。
必要以上に怒られ急かされてきた経験が、一種のトラウマになっているのだと思う。
そんな折に出会った、『チクタクタ』の歌詞である。
「優柔不断な自分」を自覚・俯瞰したときの、まわりへの申し訳なさ、頭がいっぱいいっぱいになる焦燥感、自分にとっての正解じゃなく相手にとってのアリかナシが気になる思考回路、選択権をもつことさえ嫌気がさす瞬間……。
どれもこれも、歌詞が見せてくる心情の解像度が高すぎるのだ……。
こうかはばつぐんだ……。
全く関係のない他人の「優柔不断」の物語なのに、わたし自身の苦い過去がありありと思い出されてしまう。
それで冒頭に書いたように、好きなのに苦しくて聴けないというジレンマが生じてしまうのだ。
なんてこったい……。
重なるところが多いとはいえ、『チクタクタ』における「優柔不断」と、わたし自身の「優柔不断」について、決定的に違うのは「優柔不断になる理由」の部分だろうか。
曲についてのインタビューで高野洸は、
と語っている。
歌詞でいうところの、
の部分だ。
「どれもこれも良く見える」というこの部分もたしかによく共感できる。
だが、わたしにとって一番の「優柔不断になる理由」は、『チクタクタ』の歌詞を借りるならここにある。
意思決定の軸に、自分の意思だけじゃなくて、他人への配慮が入ってくるのだ。
こういう、自分をまっすぐに選択に反映できない時の、絶妙な焦りやかなしさ・窮屈さ。
解像度が高すぎて、聴いていて、もう、
す〜〜〜んごい切ない顔になってしまう。
あの頃のわたしや、こないだのわたし、いつかのわたしたちが、心のなかで今でも体育座りをしてションボリしている。
大好きな曲だけど、聴いていてギュッッッとなってしまう。
もどかしい。
でも結局、苦しいだ共感だなんだかんだといいながら、こういう楽曲が印象づよく胸に残るのはたしかだ。
今となっては、高野洸の8thシングル収録曲の中で一番よく聴いている。
そんな今日も、『チクタクタ』を何ともいえない顔で、でもちゃんとノリノリで聴くなどしている。
そして昨日3/13、私生活において、数年がかりの優柔不断の末にひとつの決断をして、わたしにとっては大きな決着をつけることができた。
長かった〜。この話はまたいつか。
だが一つに終止符を打てたとて、悩んでいる間に時間はどんどんすぎてくし、あれもこれも光ってて良いとこが見えすぎて頭を抱えるし、優柔不断であること自体に逃げたくなるし、自問自答してはクタクタになる、そんな日々をあいも変わらず過ごしている。
まあでも、その優柔不断でうだうだ言った先でしか出会えないものもあるだろうし、自問自答しないと見えないことだってきっとあるのだと、信じたい。
決まるときはすぐ決まる、選べないときはまだ選ぶべきタイミングじゃないこともある、優柔不断である時間もちゃんと必要だったりする、などと、自分に言い聞かせながら生きていきたい、そうして生きていくしかない。
『チクタクタ』を聴くと、そんなデカい感情が、胸の中をかけめぐるのだった。
あたしゃまだまだ優柔不断な自分を愛せそうにない。
それでも、ポップで鋭利であまりに人間くさい『チクタクタ』と踊りながら、ゆらぎ、たゆたい、ふわふわしてしまう自分をもっとおもしろがれたらと、願ったりしている。
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