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おそらくは高価なのだろうけどお金さえ出せば誰でも手に入れることができるものを見せられた時に《オトナの反応》ができない体質 (エッセイ)

会社勤めをしていた頃、食堂でたまたま隣に座ったエライ人が、何の脈絡もなく、
「これ、ずっと欲しかったんだけど、ついに買っちゃった」
と言って、ジャケットの右腕をめくったことがありました。

── そこには、銀色に輝く腕時計が。

「はあ……」
── たぶん、高価なブランド品だろう。
「……それは……」

エライ人は、少し照れたように言った。
「***の###。……ついに買っちゃった」
高級ブランド名《***》ぐらいは私も知っていた。
でも、おそらくその中でも上位に位置するのだろう、《###》という商品名は知らない。

こういう時に《社会人》としての ── いや、《組織人》としての、かな ── タダシイ反応ができなくて、困ることがよくありました。

お、###ですか、すごいですねえ ── と感心すべきだろうか? でも###がどれくらい《スゴイ》のか見当がつかないのに、感心した《フリ》だけしても、バレちゃうんじゃないだろうか?

そんなことが頭の中をぐるぐる巡っているうちに、最初は「高揚」していたエライ人の表情は、なんだか急速にしぼんでいく。

(なんだこいつ、張り合いねえなあ)
── そう思っているのでしょう。

・張り合いないヤツ
・鈍いヤツ

と思われるのは全然かまわないのだけれど、おそらくは私の深層心理に潜んでいる、

《いや、でも、お金さえ出せば誰でも手に入れることができるモノですよね》

が見破られるのはちょっと困る。
さらに、

《お金さえ出せば誰でも手に入れることができるモノをホメたりしたら、結局、お金を持ってることをホメることになっちゃうじゃん!》

との考えから「感心/賞賛」表現を控えているのだ、とも思われたくない。

《オトナの反応》はできないくせに、人並みに「円滑な人間関係」は保ちたいと思っているのデス。

こんなことがあった後はいつも、自分の中で、
(仕事が《営業》じゃなくて良かったな)
とまとめる。

プロの営業マンと食事をする機会があると、彼らの気配りや「常識」範囲の広さに、いつも感心 ── というより、圧倒されたものです。

自慢の時計

では、私は、
「お金さえ出せば誰でも手に入れることができるモノを自慢することがないか?」
といえば、答えは、
「ある」

つい先日も、娘のダンナに腕時計を自慢しました。

「これ、いいだろ? ── 1280円。ソーラー式だから電池交換不要なんだ。しかも、この間、下呂温泉に行った時に、うっかりはめたまま湯にしばらく浸かっちゃってさ、pHペーハーが高くてヌルヌルだからさすがに壊れたか、と覚悟したけど、いまだにちゃんと動いてる! ……生活防水だけなんだけどね。スゴイだろ?

別に、私がスゴイ ── わけではありませんが。


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