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慣例よりも、自分の脳みそで考えたい【浅生鴨さんインタビュー 編集後記】

先日アップしたかもさんのインタビュー記事が、予想以上に読まれている。

note公式のおすすめにとりあげていただいたり、またtwitterでは浅生鴨さんご本人や糸井重里さんにもRTしていただいた影響で、わたしの弱小アカウントとしては異例のRT数といいね数になった。

それ自体は素直にとてもうれしくて、ああ光栄だなあとしみじみ思う。ただ一方で、どうだいすごいだろうとうぬぼれる気分には到底なれない。そりゃあそうだ。そもそもこの記事はかもさんがあってこその記事だし、かもさんという人について知りたい、という人たちがそれを求めて読むものだから、自分はただの媒介者に過ぎない。

コンテンツは自分にあるわけではなく、わたしは誰かのそれをお借りして、どうすれば素材がよりおいしく提供できるのか、素材の風味を生かしながら、生野菜でも煮込みすぎでもない、うん、いいね!という状態で提供できるのかを考えるのみなのだ。

長らくその意識だけはあるから、今回のような場合も妙に冷静な自分がいる。鳴り止まないtwitterの通知を見つめながら、「ああ、やっぱりかもさんの魅力はすごいなあ」「かもさんや糸井さんの影響力はすさまじいなあ」なんてことを、現実感のない中でぼうっと考えていた。

その「いいね」は100パーセントが書き手への賞賛じゃない。すごいのは「インタビューされる側」であって、自分の力なんてほんの数パーセントくらいのものだと、痛いほどわかっている。

わたしは、圧倒的に、何者でもない。

そんながっかり感というか、開きなおり感というか、受け入れるしかないその正直な事実を胸のなかでころがして、ちょっとヒリヒリとする気持ちを逃げずに味わって、自分の立ち位置を確かめる。

20代、何者かになりたかったころにはできなかったそんなことが、できてしまうくらいの大人にはなったということか。見栄をはらない自分の正直な実力を受け入れることはたぶん、生きるうえでもきっと楽なんだろうと、いまなら思う。20代より、だいぶんいまは呼吸がしやすいよ。

* * *

「圧倒的に、何者でもない」。

言い換えれば、ただの一般人。劇なら「村人3」とか、そんな立ち位置。

でもその、一見無価値なポジションは、視点を変えれば価値にもなるんじゃないか?

今回インタビューの原稿を編集するにあたって、最も意識したのはそこだった。

「大手媒体でも、インフルエンサーでもない、何者でもない自分が、著名な方のインタビュー記事を書く価値はどこにあるのか」

そんな自問自答を繰り返しながら、今回の原稿は編集されていった。

そうして最終的にできあがったのが、あの記事だ。べらぼうに長く、だらだらと時系列で、無名のインタビュアー側の個人的な発言も削らず、会話をとじこめた形式の、あの記事。プレーンな「読みやすさ」からは対局にあるような記事である。

はたして興味がある方がどれほどいるかは不明だが、自分の備忘録もかねて、あの記事形態へと至った思考の経緯を書きとめておきたいと思う。

* * *

今回の記事を編集するにあたって、ぐるぐる迷いながら考えていた要素は大きく4つある。

■ 構成(再構成 or 時系列)
■ 形式(会話 or 地の文あり)
■ 書き手の存在をどの程度出すか
■ 長さ(記事の分割をするか)

それぞれについて、思考過程のメモを残しておきたい。


■ 構成(再構成 or 時系列)

一般的によく言われているWebインタビュー原稿の「正解」は、「現場での会話の順序とは関係なく、得た情報を読みやすく再構成し、無駄を最大限に削ぎ落として本筋を整える」ところだと思う。

現場で行われた会話をほぼそのまま、時系列でおさめるというのは、見る人から見れば「ライターの怠慢」「ライターの能力不足」と言われることもある(背景に検討がなく、単に怠慢のこともあるので否定はしない)。

実際、わたしも受注仕事としてのインタビューでは再構成して整えることが普通だし、今回もインタビュー前の時点では、“テーマごとに読みやすく再構成して”記事化しようかな、とぼんやりと考えていた。

ただインタビューを終え、編集途中の画面を見ながら、頭を抱えてしまったのだ。

「これを切り貼りしてすっきりと“整え”ることが、今回の原稿にとっては、はたして正解なんだろうか?」

そんな疑問がふつふつと、わきあがってきたのだ。

“何者でもない”一般人と、著名な方との間で、微妙な空気ではじまったインタビュー。話すうちに徐々に会話もなめらかになり、なぜか主婦的視線で小説家におすすめの料理レシピを聞いたり、後半ではずうずうしくも無名な一般人が人生相談すらしてしまっている。

その混沌とした一連の流れは、それ自体が今回の企画の軸であるかもさんの新刊『どこでもない場所』の空気感につながるのではないか。

「浅生鴨さん」や『どこでもない場所』に興味を持っている方がメインの想定読者ならば、今回の記事に関しての正解は、この混沌とした空気感をそのまま閉じ込めてお届けすることなんじゃないだろうか。

今回の想定読者にとっては、そのほうがおもしろいと思ってもらえる気がする。けれど、これは自分の怠慢なのか?どうなのか。もんもん。


■ 形式(会話 or 地の文あり)

こちらもインタビュー前の時点では、ナレーション的に「地の文」を入れ、NHKのテレビ番組『プロフェッショナル』のような、“かっこいい”インタビュー記事にすることをぼんやりとイメージしていた。

だが編集する際、「構成」で書いたような、「何者でもない自分と著名な方とのインタビューという、現場のリアルな空気感をみせたほうがおもしろいのでは」という思考にシフトするにともない、気どらない、より現場感のある「会話」形式を選択することにした。


■ 書き手の存在をどの程度出すか

これについては今回に限らず昔からずっと葛藤があって、以前、noteにもこんな記事を書いている。

無名ライターにとって、受注仕事として受けるインタビュー記事では「可能な限り存在感を消す」「聞き手側の個性は不要」とされるのが一般的である。わたしも媒体が決まっていてそこからいただく仕事に関しては、それで納得している。その媒体が達成をめざすべき「目的」において、わたしという聞き手の個性は不要だということだから。

ただ、その正解がいつなんどきも正解とは限らないと、個人的には思っている。

だれに届けたいのか。漫然と思考停止に陥るんじゃなくて、それを念頭において、問い続けたい。

だれでもいいからひとりでも多くのひとに、浅く広く拡散させたいのならば、聞き手の個性は削ぎ落とし、読みやすくプレーンで簡潔な原稿のほうが受け入れられやすいだろう。

ただ、今回の記事に関しては、発表先がnoteというプラットフォームであり、浅生鴨さんの『どこでもない場所』という("お役立ち"とは逆の路線をゆく)エッセイが軸である。

そう考えると、想定読者の方々は「効率的に情報をインプットしたい方々」というよりもむしろ「無駄や余白をたのしもうという気持ちのある方」で、聞き手側の視点もおもしろがってくれる方が多いのでは、と考えた。


■ 長さ(記事の分割をするか)

上記3点についてはわりと早い段階で方針が決まったものの、公開ボタンを押すまでずうっと、迷いためらい逡巡していたのがこの「長さ」という要素である。

これもいわゆる「Web記事の一般的な原則」では、「長い記事は読まれない」というのが定説のようになっているからだ。

忙しい現代人、「ちょっとしたスキマ時間のひまつぶし」に読むのに、長いものは適さない、というのがその背景として語られる主張だ。

今回は時系列で空気感を伝えたいから、これ以上文字数を削ることはしたくない。ならば残された方法は、記事を分割して「第1回」「第2回」のような形で届けるか、もう開き直って1記事で全内容をお届けしてしまうか、どちらかである。

たとえばこれが企業のメディアか何かで、メディア運営的に考えたなら、せっかくの充実したコンテンツを1度に出すのはもったいない、分割したほうがPV数や記事数が稼げる、という考え方もあるだろう。ただ今回はそこを重視したくはなかった。

それでも分割の有無については、本当に迷っていた。

直感としては、時系列の混沌とした空気感を届けたいと考えている以上、1記事で届けるのが今回に関しては正解な気がしていた。

「浅生鴨さんに興味があって、文章を読むことをある程度いとわない方々」が今回の想定読者だとすれば、今回の記事に関しては長くても読んでもらえるのではないか、という思いがあった。

ただそうは言っても。そうは言っても、長すぎやしないか。

書き手本人のひいき目ですら、何度も最初から読み返していると、スクロールが長すぎて、眠いときなんかは途中で離脱しそうになったりもする。他の人はなおさら、最後までたどりつけないんじゃないか。

わたしのnoteは基本的に、自分の独断であげているものばかりだが、この点についてはさすがに客観的な意見がほしくて、夫に途中段階で読んでもらって感想を聞いた。

私「どうだった? っていうか最後までスクロール、できた?」

夫「うん、できたよー。あーでも、知り合いが書いているものじゃなければ、途中で離脱しちゃったかもなあ、って感覚はある」

……だよなあ、やはり。意見をもらってその後も、導入部分を中心に何度も書き直した。どうしたら冒頭で、最後まで読んでやろうかと思う気になってもらえるのか。どうしたら途中で、疲れ果てずに最後までたどり着けるのか。そう考えて小見出しや画像も含めて全体の推敲を重ねたが、それでもまた弱い気がした。いかんせん、スクロールが長すぎる。

“本当にこれでいいのか?”

“やっぱり、ひとりよがりなんじゃないか?”

ある程度長くても読者はついてきてくれる気がするけれど、そうはいってもこれは、長すぎるんじゃあるまいか。やはり、分割すべきなんじゃないか。葛藤していた。

数日間、どっちだ、どっちなんだと思考を繰り返して、もんもんと悩んだあげく、最終的には自分の直感を信じることにした。

その背景にあったのもやはり、今回の読者はだれなのか、という点である。

万人に浅く広く届けたいものならば、たしかに長すぎる記事は不正解だろう。スキマ時間にぱっと読んでほしいものなら、それにふさわしい形態にすべきだ。

でも今回はそうじゃない。今回の記事を届けたい先にいるのは、浅生鴨さんに興味があり、『どこでもない場所』に(潜在的でも)興味があり、noteや書籍などである程度、文章を読むことに慣れている方々だ。

ああ、でも。長すぎて、だれにも読まれなかったらどうしよう。かもさんの貴重な1時間@福岡が、だれにも届かなかったらどうしよう。不安だ。

どきどきしながら、でも最後は直感を信じて、公開ボタンを押した。

* * *

結果的に、いただいた反響は予想以上に大きかった。

現時点で72件のリツイート、264件のいいねと、わたしの弱小アカウントとしてはおどろくべき反応をいただいている(ひとえに皆さまのRTやいいねのおかげです)。

twitterという流れの早いSNSの中で、つぶやき単体じゃなく、「スキマ時間じゃ読めないほどの長文コンテンツ」がこれほど反応をいただけるということに驚いた。

そして何よりうれしかったのは、自分が上記のようにもがき苦しんで、ほぼ「Webで読まれる記事」の真逆をいくような形で押し切った今回の記事を、それいいねと感じながら読んでくださった方々がいたことだ。

ほんとうにこれでいいのか? ひとりよがりなんじゃないか?と公開直前までどきどきしていた中、「最後まですっと読めた」「書き手側の視点も楽しかった」と言っていただけたのは本当に、本当に励みになった。ありがとうございます(文末に、いくつか抜粋してコメント掲載させていただいています。わたしが心折れそうなときに見返して元気をだす用に)。

すごいのはあくまで「インタビューされる側」であって、自分の力なんてほんの数パーセントくらいのもの。それを強く自覚しているけれど、ああ、その数パーセントの役割を、最低限、いまの自分がやれるところまでは精一杯まっとうできたのかなと、反響をいただく中でやっと少しだけホッとした。

* * *

もちろん、すべてのケースにおいてこの形式が正解だ!というつもりはまったくない。絶対にない。

ただ、「常識だから」「慣例だから」を判断の理由にしたくないなと思うだけだ。

「長い記事なんて読まれないから」

「無名の書き手が出過ぎる記事なんて嫌われるから」

「時系列で並べるなんてライターの怠慢だから」

それぞれ、ある場合においてはそれが正解である。ただそれは、すべての場合においての正解ではないんじゃないか?ということを、常に頭のどこかにとどめておきたい。

「今回の企画」「今回の媒体」「今回の想定読者」などにおいて、その編集形態は適切なのか。「そういうもんでしょ」と思考停止ボタンを押す前に、自分の脳みそでもう一度、考えることを忘れないようにしたいと思う。

(おわり)


▼以下はtwitterのコメント一部抜粋。正攻法ではないアプローチに「ほんとうにこれでいいのか?」とドキドキしていたので、こういう声のひとつひとつが、心にしみました……。感謝。


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