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白シャツという自由

最近、白シャツが楽しい。

少なくともここ3日間、気づいたら白シャツを着ている。

素材やデザインはいろいろだし、たいていキャミソールとかタンクトップとかとあわせてラフに着るのだけれど、とにかく真っ白なシャツがメインというのがいい。とてもいい。とても、なんていうか、気分だ。

朝、ねむい頭のままクローゼットの前に立って、ぼんやりと洋服を見る。

ああ、昨日も白シャツだったなあと思いながら、でもまた、違う白シャツを手にとってしまう。

ここぞとばかりに、白シャツを着ている。うれしくて。

* * *

わたしにとって白シャツは、自由の象徴みたいな存在だ。

2年前、産後の授乳期はほんとうに、赤子におっぱいをすぐに差し出せることを最優先としていたので、毎日の服装なんて制服のようにワンパターンでひどいものだった。しかも娘は吐き戻しが多く、抱っこするたび肩のあたりにシミができた。

ちょっとでも楽になるように、気分も変わるようにと買った授乳服のワンピース数枚も、ローテーションでぐるぐる着ているうちにいつしかヨレヨレになり、それをなんとなく感じながらも、ヨレヨレにさして抵抗する気力もなかった。とにかく楽をとりたかった。

ちなみに、一応補足しておくと、産後だろうが授乳期だろうが、常に美しく素敵な装いをしている奥さまというのは一定数いらっしゃる。だからこれは、己の美意識の低さに由来するものだと思う。「楽をとるか、美をとるか」、ただの性格の違いみたいなものだ。

わたしだって子が生まれる前は、さほど美意識が高くなくても、心に余裕があったから楽も美もそれなりのバランスでとれていた……はずだった。だが産後1年はわたしの場合、完全に美を捨てて楽をとっていた。頭も心も、ファッションのことまで考える余裕がなかったのだ。

離乳食シーズンは、毎回何かしらを投げつけられ、子はもちろん、母の方も髪から洋服までぐちゃぐちゃになる。もちろんエプロンもしていたが、どこへ飛んでくるかわからないのであまり意味をなさなかった。

そんなときでも、ヨレヨレの服ならばまだあきらめもつくものだ。間違っても白シャツなんぞ着ていたら、心がもたない。

* * *

狂ったように白シャツがほしくなり、白シャツばかりを次々と買ったのは、去年の春のことだ。

娘が保育園へ登園することになり、わたしもようやく心に余裕ができつつあり、ものすごくひさしぶりに、新しい服を着よう、と思えた。保育園へ行くなら、日中は白シャツが着られるはず!そう思って白シャツを数枚買った。

だが現実はそう簡単ではなく、まず朝食の格闘からはなかなか解放されなかった。

自分でも記憶が薄れつつあるが、去年の9月時点でこんなnoteを書いている。そうそう、なんでもかんでも、投げ飛ばされていたなあ。この1年で、いったい何枚、お皿を割ったことか。

当時は牛乳が入ったコップだったり、トマト煮込みが入ったお椀だったりを中身ごとブンッと投げ飛ばされることが常だったので、やっぱりとてもじゃないが、白シャツを着る気分にはなれなかったのだ。

え?朝ごはん前は普段着に一度着替えて、出掛けに白シャツに着替えて、帰ってすぐまた普段着に着替えればいいじゃないかって?

いやいや、美より楽をとりたがるわたしにそんなひと手間が無理なことは、ここまでお付き合いいただいているみなさまにはおわかりのとおりだ。

* * *

上記の朝ごはん格闘noteからさらに半年以上が過ぎ、娘は格段にごはんを食べるのがうまくなった。

いや、いまだに食べこぼしは盛大だし、テーブルの上にソースをべちゃーっとして遊んだり、液体をあえてこぼして指で伸ばして、なにかの研究活動にいそしんでいたりはするのだが、少なくとも、トマト煮込みが入ったままの皿をこちらへぶん投げることはなくなった。

だからわたしは、白シャツを着る。

朝食づくりのときから、まず袖を肘までまくり、肩幅広めのエプロンをして、可能なかぎり白シャツ露出面積を減らす。ごはんもそのまま対応すれば、被害はかなりの確率でおさえられるようになってきた。

まあたまに、ごはん直後に「抱っこ」とか言われて、娘の手を拭くのをうっかり忘れてそのまま抱っこして「あ」みたいなときもあるんだけどさ。

狂ったように白シャツを買った春から1年。

いま、ようやく白シャツが楽しい。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。