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それでもわたしは怒れない

寒い。寒い。なぜなら玄関のドアがもう数時間も全開だからだ。

今日は朝から自宅に工事が入っている。

我が家は古いマンションの3階なのだが、上の階の方が年末にお風呂の水をあふれさせたそうだ。年始に家に帰ってきたら、我が家の洗面所やトイレがびちょびちょになっていておどろいた。というわけで今日は、そのための天井張り替え工事の第一弾なのだ。

ところで、帰宅して洗面所とトイレがびちゃびちゃだったら、あなたは上の階の方に対して怒るだろうか?

わたしには怒る資格なんて微塵もない。

なぜなら数年前、わたしがこのマンションに引っ越してきたばかりのときに自分自身が「やらかして」いるからだ。

* * *

ここは古いマンションなので、なんと洗濯機の排水口が洗濯機置き場にない。洗濯のたびに、排水ホースをお風呂場へ伸ばして、お風呂場から排水させなければならないのである。

結婚して引っ越してきたとき、先に住んでいた夫からそのことを聞いてはいたものの、ひとり暮らしのアパートですらそんな習慣はなかったので、うっかり排水ホースをお風呂場へ逃がすのを忘れ、るんるんと洗濯機を回してしまったのだ。

そんなことにはもちろん気づかず、「よし、片付けるぞー!」と引っ越しの荷物整理に精を出す。

そこへ「ピンポーン」とベルが鳴る。

はーい。呑気に出てみると、階下の奥さまだった。

「あの……なんかちょっと水、たれてきてるんですけど、大丈夫ですか?」

寝耳に水とはこのことである。最初は唐突すぎて、何のことを言われているのかまったくわからなかった。

二、三、ことばを交わして、ようやく我が家からの水漏れのことを指摘されているのだと理解し、「ハッ!」と背筋が凍る。

あわてて洗面所のドアをあけたら、そりゃもうご指摘のとおり洗面所は湖と化していた。そうこうしている間にもリアルタイムで洗濯はつづき、排水ホースからコポコポと、床の上に水がばらまかれているではないか!

「うわあああああすいませんすいません! ほんとうにすいません……!」

とりあえず排水ホースをお風呂場に逃し、使い古しのバスタオルをべしゃべしゃと床に置いて、玄関で待つ階下の奥さまのもとへ戻る。どうしたらよいかわからず、まずは平謝りして、管理会社に連絡して今後の対応またご連絡しますと伝えて、わかれる。

またひとりになり、さっきまでの呑気な気分はどこへやら、パニックモードになった脳でとりあえず洗面所の水をなんとか吸収させて現場復帰をはかった。

そして管理会社に電話して、今後の方針を相談。被害状況を確認せよと言われ、階下へ伺って被害の状況を聞いて、また管理会社とやりとり。義実家でとれたはっさくをとりいそぎのお詫びとして紙袋にごろごろ入れて階下へお届け。

後日、保険屋さんや工事会社、クリーニング会社の方とそれぞれやりとり。保険適用外の金額の負担。1、2ヵ月ほどたってようやく工事などが収集したころ、菓子折りなど持って改めて階下へお詫びに……。

というのが、そういえば数年前、わたしの福岡生活のスタートであった。

結婚して新居に引っ越してそうそう、もっとも良好な関係を築きたい階下へ、挨拶代わりに水漏れ事案をかますとは、最強の妻である。へこんだ。

だから、こと水漏れ案件に関しては、もう微塵も怒る気になれない。

心労お察しいたします、だ。

* * *

今日の工事では玄関の天井をメリメリと全部はがして、張り替えるそうだ。バキバキ、ギュイイイン、カンカンカン!と不穏な音が家の中から聞こえる状態は、まあ落ち着けるものではない。

しかも洗面所のほうはまた別日の工事になるという。ああ、また仕事に集中できる時間がけずられる……と思う資格は、きっとわたしにはない。

でもひとつだけのぞむなら、洗面所の工事のときは、玄関のドアを閉めてできる工事だといい。

だって2月に玄関のドア開けっぱなしは寒い。寒すぎる。

ただでさえ窓側からすきま風が入り込む古い物件なのに、玄関へ抜けるとなると、そりゃすきま風だってますます気合いいれて入ってくるよね。

水漏れを起こしてしまうなら、せめて春か秋がいいんだな。そんなどうでもいいことをぼんやりと思う。ああ、わたしがやらかしたのはいつだっけ。引っ越してきたのが1月中旬だったから……ああ、ちょうどこのくらいの時期か。そうか。そうか。そうか。

やっぱり、何も怒る資格なんてなさそうだ。

階下の奥さま、いつか寒い思いをさせてしまって、ほんとうにごめんなさい。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。