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ぽんぽんのくつした

それは娘がまだ赤ちゃんのころ、ばあばがプレゼントしてくれたものだ。

パイル地というのだろうか、伸縮性のあるタオルみたいな生地でつくられた、ベビーサイズの小さな小さなくつした。足首の前のあたりに、直径2cmくらいある大きめのぽんぽんがついている。

当時はそのくつしたにぴったりの、小さな娘の足にそれを履かせて「あらかわいい」なんてほほえんでいたものだ。なんだろうね、あの時期って親が着せたいものを着せてうふふ、なんて言える特別期間みたいなものだよね。

* * *

それから1年以上が経ち、2歳になった娘はいま、毎朝でかける前に自分でくつしたを選ぶ。

「よし、おでかけだよ。じゃあくつした選ぼっか」

そう声をかけると、いそいそとくつしたの閉まってある引き出しの前へ行き、中を覗き込む。

そんな中、なぜかひと月ほど前から突如「ぽんぽんブーム」が到来し、赤ちゃんのころに履いていたそのぽんぽんくつしたを連続指名しはじめたのだ。

ぽんぽんくつしたを洗濯している間は選びようがないので、正確には1日おき。だがその1日おきで、他にたくさんの新しいくつしたが並んでいるにもかかわらず、ぽんぽん一択である。

正直、娘の足にはもう小さい。しかもかなり年季が入ってしまい、ぽんぽんは若干つぶれ、本体もそこここから糸が飛び出し、なんともみすぼらしい感じになってきてしまっている。さらには、ふわふわパイル地と毛足の長いぽんぽんは、見ているだけでもちょっと暑い。

あまりのぽんぽんループに、季節感とサイズ感と清潔感を優先したい母は思わず言ってしまう。

「ええ、またそれ?もうそれちっちゃいよー。それに暑いんじゃない?あ、娘ちゃん、猫ちゃんのあるよー。にゃんにゃんいいじゃん、どう?」

「なんっ!」

そう言ってぽんぽんくつしたを大事そうに抱える。

ちなみに「なん」というのは現在の彼女が否定をあらわすときに用いることばだ。「お着替えしようか?」「なん!」「これママが食べていい?」「なんっ!」みたいに。勢いよく毅然とした態度できっぱり言い切るのが、否定の意味を親に伝えるポイントらしい。たまに出だしに小さな「ぃ」がつくこともあり、そんなときは「否っ!」と言われているようにも感じる。

ああなんだっけ、そうそう、くつしたの話だ。

実際履かせると、まあ非常に伸縮のよい素材で、びろおんと2倍くらい気持ちよいほどに伸び、彼女のいまの足になんとかぎりぎりフィットしてしまう。まあそれがまた気持ちいいのかもしれないなあなんて。

そんなわけでサイズの合わないぽんぽんのくつしたにご執心の彼女は、1日おきにぽんぽんくつしたを履き、保育園の先生にも「あ、今日またぽんぽんだね!」と突っ込まれるようになってしまった。

連休中、わたしの実家に帰省しているときも、母が持ってきた(ちゃんとサイズの合う)くつしたのラインナップを一瞥してわたしの目を見、「ぽんっぽんっ!」と言う。

彼女の代わりに意訳するとこうだ。「ちょっとママ、ぽんぽんのくつしたがないんだけど。わたしぽんぽんのくつしたが履きたいのよ、まさか持ってきてないなんて言わないでしょうね」。

もちろん持ってきていない母は、「ごめん、ぽんぽんはお家に置いてきちゃったよ。この中から選ぼうか、にゃんにゃんにする?水玉にする?」と話を逸らす。これだから大人ってやつは。

* * *

ところでこのnoteに落ちはない。ただ、娘が「ぽんっぽんっ」と言う、その響きを、耳に残しておきたいがためだけに書いている。

ぽんぽん、とスムーズに言えず、間に小さな「っ」が入ってがんばって言う。その感じがとっても愛おしい。

ことばのゆっくりな彼女は、少しずつ単語が増えてきてはいるけれど、同じくらいの年の子と比べればやっぱり話せることがとても少ない。

そんな彼女の限られた語彙の中に入ってくるほど、「ぽんっぽんっ」は彼女にとって選ばれた、大切な要素なんだろう。

彼女の足のサイズにあった、二代目ぽんぽんくつしたを買わなきゃいけないなあ。もう夏が近いけれど、どこかでぽんぽんくつした売っているかしら。もし売っていなくても、冬が近づいたら、娘と一緒に探しにいこう。

でもそのころには、もう次のブームが来ていて、ぽんぽんのことなんてすっかり忘れているかしら。ぽんぽんも、うまく言えるようになっちゃっているかもしれないな。いいんだ、だからこそいまの「ぽんっぽんっ」を書き残しておきたい、って思うんだから。

そのときはまた、新しいお気に入りを探しにいこう。洗いかえの分も、忘れずに買っておこうじゃないか。

自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。