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打ち上げはスーパー銭湯で

打ち上げという単語が縁遠くなってひさしい。

そもそも大勢のパーティは得意じゃないので、ひとりで働くようになってからはそういう“職場の飲み会”のような場が減り、ほっとしていたはずだ。

だけど……、だけど。

あまりに「打ち上げ」ていないと、わたしのような人間にも「打ち上げ欲求」というようなものが大いにひそんでいることに気づく。気づいてしまう。

そんなわたしの横で夫が言う。「昨日は◯◯の打ち上げだったんだけどさ……」と、言う。

夫にとっては、そこから先につづくエピソードのほうがメインであって、「打ち上げだったんだけど」という言葉は単なる枕詞というか話の導入にすぎない。そうわかっているのだけれど、わたしの脳みそは思いのほか「打ち上げだったんだけど」で数秒間とどまっていて、その先のエピソードはたぶん、ちょっとだけ上の空で聞いている。

打ち上げだったんだけど。打ち上げだったんだけど。「打ち上げ」だったんだけど……!?

“わたしだって、打ち上げたい”。

自分でも無意識に、そんな気持ちをうっすらと心の底に敷いて、ぼんやりと話の続きを聞いているのだ。

* * *

そもそも打ち上げというのは、何かのイベントやプロジェクトが終了し、「いやあみんなよくやった!お疲れさま!これからもよろしくね!」みたいな意味合いを込めてひらくものだととらえている。互いの疲れをねぎらいあい、たたえあい、たいへんだった話も笑い合ってふりかえって今後につなげる、そんな開放感あふれる場だ。

つまり、打ち上げるためには、まずイベントやプロジェクトがわかりやすく「終了」しなければならない。そしてそのイベントやプロジェクトに、同じくらいの熱量でともに取り組んできた仲間というか、「同志」がいなければならない。

……ちょっと話は横道にそれるが、よく第一子の新生児育児中に夫と妻のあいだで生まれる、ケンカの種となるポイントがここにひとつある。

というのも、赤ちゃんのお世話には、仕事のようにわかりやすい「区切り」や「終了」がないからだ。

24時間勤務体制なので、朝から晩まで働くのはもちろん、睡眠時間であってもトップクライアントの一声で飛び起き、我が身をけずって相手に尽くす必要がある。もちろん苦労ばかりではない、相手の笑顔や成長がその仕事に取り組むモチベーションになる。むしろ金銭的な報酬はないから、それだけを頼りに身を粉にして毎日をのりきってゆく。

さらに第一子の場合、夫の育児に対する認識や熱量が妻のそれに追いついてくるには1年半ほどかかる(※我が家調べ)ため、最初の1年は「同志」と感じられるパートナーが不在であることが多い。

そんな中で聞く「打ち上げ」という単語は、当時心の底からうらやましく、そしてはるか遠くの世界の単語に聞こえた。

終わりがある仕事、いいなあ。だれかと同じ熱量で取り組むプロジェクト、いいなあ……。あのときはそこまで冷静にことばにする余裕もなくて、きっと「ずるい」なんて幼稚なことばになり、イライラボールとともに夫に噴射されていた、と思う。

* * *

1年ほど前、ようやく卒乳が近づき、ひとりで長時間の外出が叶うようになったころ。わたしは「いまだ!」と思いたち、夫の協力のもと、ひとり打ち上げを決行させてもらった。

それが、「スーパー銭湯 DE ひとり打ち上げ」である。なにも特別なことはない。娘を夫に預け、スーパー銭湯に行って、ひとりで過ごし、夕方には帰ってくる。それだけのことだ。

だがそれだけのことが、どれほどに貴重であることか。抱っこ紐もベビーカーもなく、自分ひとりで歩くということが、どれほど身軽で羽が生えたみたいに感じることか。初めての打ち上げで、わたしはいちいち感動していた。

片手間ではなく、しっかりと自分の髪の毛を洗い、「トリートメント」をていねいに塗布できるという事実の、なんと革命的なことか。数分間それを置いてから流す、という猶予があることの、なんと贅沢なことか。

子の安全に気を張ることなく、自分のことだけを考え、ゆっくりと温泉に浸かるというのはこれほどに休まることだったのか。水面にはゆらゆらと波紋が広がり、高い天井のライトに反射してきらきらと癒やしの光を放つ。

……そんなふうに「水面をじっくりと観察する心の余裕がある」ということが、なんとすばらしいことか!

ひとり打ち上げ、バンザイ……!!!

* * *

すっかり味をしめたわたしは、その後も数ヶ月から半年に1度くらいの割合で「わたし、よくがんばった!」「だめだ、もうこのままじゃ乗り切れない……!」というタイミングでこの「スーパー銭湯DEひとり打ち上げ」を実行することにした。自分の心身のメンテナンスという意味ではもはや欠かせないので、気持ちのうえでは仕事の一環、だと都合よく解釈している。

先日も、原稿を連続納品して仕事のきりのよいタイミングで「いまだ!」と思いたち、ひとり打ち上げを遂行することにした。今月は他にも心身に負荷のかかる要素があり、「このままでは(わたしが爆発して)家庭内平和が乱れる……!」と思ったのだ。はやめに、リセットが吉である。

ということで奮発して、岩盤浴もつけちゃう。岩盤浴は数百円の追加料金がかかるのだけれど、そのぶん利用者が絞られ、部屋自体が静かで、とても落ち着いて過ごせるのだ。

しん……と静かな岩盤浴室内で、遠赤外線だかなんだか、よくわからないけれどありがたいものが放出されているという温かい石のうえに横たわり、横の砂時計をまわす。

砂時計の砂が落ちるまで、ひたすらに静寂の中で横たわる。目を閉じて、すべての雑多なできごとを頭のなかから追い出し、ただただ、自分の体がじんわり、と温まってくるのを感じる。いつのまにか、じっとりと汗をかいてくる。お腹の脂肪も、ちょっとは燃焼されているかしら……。

そんなまじめな静けさの中、わたしは脳内で「ああ、自分はあぶられている豚みたいだな」なんて思いはじめてしまう。豚にたいへん失礼だ。そう思いながらもいったん脳内にそのイメージが浮かんでしまうともはやどうしようもなく、自分の体からたらたらと汗がすべり落ちるのを感じるたび、「あぶられている、あぶられている」なんて脳内にちらついてしまう。

とてもくだらないと思う方も多いだろうが、いや、実際くだらないのだが、これほどに自分の体にフォーカスすることは、仕事と育児の毎日ではなかなかない、ということだけは付け加えておきたい。

ひとり打ち上げにおいては、ねぎらうのもねぎらわれるのも自分。わたしはわたしを構成する全細胞の存在に思いを馳せ、それをねぎらうのだ。あぶられてゆく、わたしの脂一滴さえも。お疲れさまであるよ。

仕事でも育児でもなく、そんな妄想をくりひろげている時間こそが、ひとり打ち上げの醍醐味である。脳内にぽこっ、と第三のスペースを空けておくのは、「いい無駄」「必要な無駄」だと思っている。余白、と言いかえれば、かっこいいのにね。

* * *

ひとりで仕事をしていたって打ち上げたい。育児中で満身創痍だって打ち上げたい。地続きの日々だって、わかりやすく大きなイベントが「終了」しなくたって、打ち上げたい。同志がいなくたって打ち上げたい。

打ち上げていい、打ち上げちゃっていい。

この1ヵ月よくがんばった、わたし。次の1ヵ月もどうかよろしくね、わたし。そのくらいカジュアルに打ち上げちゃっていいのだと思う。

サウナ室なんかにいると、たまに子育て中らしきママさんふたり組が育児トークを繰り広げていたりするのが聞こえてくる。「あ、打ち上げですね、おつかれさまです!」と、勝手に心の中で同僚みたいに思っている。意外とみんな、そうやって打ち上げてるのかもしれない。

そもそも打ち上げというのは、何かのイベントやプロジェクトが終了し、「いやあみんなよくやった!お疲れさま!これからもよろしくね!」みたいな意味合いを込めてひらくものだととらえている。互いの疲れをねぎらいあい、たたえあい、たいへんだった話も笑い合ってふりかえって今後につなげる、そんな開放感あふれる場だ。

そう、打ち上げのキーワードは「開放感」なのかもしれないと、ここまで書いてようやく思いいたった。いわゆる「ぱあっとやる」というやつである。

わたしが大勢の場が苦手なのに「打ち上げ欲求」を自分の中に感じていたのは、大勢で飲みたいというより「ぱあっと開放感を味わいたい」という気分のあらわれだったのだ。

きっといま、孤軍奮闘、ひとり二役で「互い」の疲れをねぎらわなければならない母ちゃんも、たくさんいるような気がしているけれど。でもどうかえいや!で、自分をねぎらっちゃってほしい、と思ってしまう。閉塞感を感じがちな日々のなかで「開放感」って大切な気がする。いや、我慢のきかない自分の、仲間を増やしたいだけなのかもしれないけどさ(笑)。

わかりにくい細々としたことを、だれに評価されなくとも複合的に今日もいくつも乗り越えているみなさん、毎日ほんとうにおつかれさまです。

えいや!で打ち上げ、おすすめです。

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