「なにそれ、『なにか』なの?」
特別なことの連続で構成された世界というのは、いったいいつから「日常」になるんだろう。
* * *
朝、1歳になったばかりの娘にガシガシとアタックされながらよじ登られる。
うーんまだ眠いなぁとごろごろしながら見ていると、娘は私をうんしょと乗り越えてひとりで遊びはじめた。
返ってきたクリーニングがかけられているハンガーラック。ちっちゃな手を伸ばして触ろうとしているのは、その下の方でひらひらしている、ビニールのカバー(クリーニングから返ってきたときに服にかけられている透明なビニール)の端っこである。
育児されている方にとっては有名な事実だが、ビニールの擦れる「カシャカシャ」音は赤ちゃんが興味を示す大好きなもので(一説ではお腹のなかの音に似ているとか)、それを模したおもちゃもたくさんある。
だから、ビニールをカシャカシャ触って遊ぶ娘は何度も見てきている。見てきているのだが、その朝はその様子を見ながらふと、切なさと不思議さでいっぱいになった。
「ああ、これっていつから『ただのビニール』になるんだろう」。
* * *
なんだか向こうが透けてみえて、さわるとつるつるパリパリしていてカシャカシャと音がなる、たのしいもの。さわりたい。
ビニールに興味津々で手を伸ばす娘のなかには、ことばにはなっていなくともきっとそんな思いがありそうだ。
でももちろん、大人が見ればそれは、ただのビニールである。
「ほう、これは珍しいものですね。どれどれ、私にもちょっと見せてくださいよ。いや、実に興味深い!」
とは間違ってもならない、普通の、ただの、見慣れた、ビニール。
* * *
ビニールは一例で、今の彼女にとっては見るものほぼすべてが新鮮だ。
お菓子の箱、調理器具、薬の箱、ペットボトル、洗濯バサミ、電源コード……、遊ぶために作られたおもちゃよりも、私たちが使う実用品の方が興味津々で、ほうっておけば何でも触ったり口にいれたりしようとする。
先日もヨーグルトのふた(大きい容器の、プラスチックの外ぶた)を触らせると、熱心にカサカサと触りながら全体を観察して、裏返してみたり、つぶしたり、叩いたり、大事そうに持ちながら引きずってハイハイしてみたり。
大人にとっての「ただの◯◯」は、彼女にとって宝物なみの待遇なのだ。
* * *
けれどその日々には終わりがくる。
1日1日は連続していて、つながっているのに。
ひとつひとつが、彼女のなかで、あるときから「普通のこと」になる。当たり前の、価値を持たないものになる。
あんなに手を伸ばして触りたかった、キラキラした存在だったビニールは、「ただのビニール」になり、道端に転がって目もくれられないような、新品でも捨てられるような、そんな存在になっていく。
特別なことの連続で構成された世界は、いつから日常になるんだろう。
* * *
そんなふうな思いを抱きながら、私は4歳の甥っ子のとある発言を思い出していた。
数か月前、彼に会ったとき。
私はペットボトルにビー玉と水を入れ、即席のガラガラ風おもちゃにしたもので娘をあやしていた。それを見て、彼は純粋に言ったのだ。
「なにそれー!『なにか』なの?」
これを聞いたとき、はっとした。
そうか、これは彼にとってはおもちゃにすら見えず、「何が楽しい」のか、説明しないとわからないものなのだ。
彼にとっては、その物体は、「ペットボトルにビー玉と水を入れたもの」であって、それ以上でもそれ以下でもなく。ただ、そのものなのだ。
「えっと……、こうやってふると、がらがら音がなって、お水がゆらゆらして、ビー玉がキラキラ光に透けたりして、赤ちゃんが見て楽しんでくれるんだよ~」。口でそう言いながら、そうか、そうかぁ、と胸のうちではたいへんな衝撃を受けていた。
ただのペットボトルに、ただの水と、ただのビー玉を入れたもの。
“『なにか』なの?”
夢中で目で追っていた、触りたかったそれは、役割を意識され、道具になり、それ以上の価値をもたないものに、いつのまにか、なる。
* * *
見るものすべてが新鮮。
まわりにあるものすべてが面白そうで、楽しそうで、なんだろうあれはと触りたくて。触りたくて。
そうして目を輝かせている、すべてが新鮮な日々は本当に短いときなのだと、4歳の彼の発言であらためて理解する。
* * *
きっと、大人の世界でも同じようなことが言えるんだろう。
見慣れているもの、もう慣れきってしまっていること、当たり前になっていること。それ以上でもそれ以下でもないと、意識することすらなくなっていること。
それらが持っている、別の価値。それ以上の価値。自分の見方や捉え方次第で、「ただの◯◯」の価値は変わることがある。そんなところから、きっと新しいビジネスなんかも生まれたりするんだろう。
与えられたおもちゃに飽きて、「ただのチラシ」を熱心にびりびりと破って楽しむ娘に、日々学びを得る。
自作の本づくりなど、これからの創作活動の資金にさせていただきます。ありがとうございます。