001荒井先生バナー

この社会に「ない」言葉を探す(荒井裕樹)

連載:黙らなかった人たち――理不尽な現状を変えることば 第2回
普通の人がこぼした愚痴、泣き言、怒り。生きづらさにあらがうための言葉を探る、文学研究者による異色エッセイ。本稿は、2018年3月7日にWEB astaで公開された記事を改題し、転載したものになります。

ぼくたちは誰も「励ませない」?

「がんばって」
「負けないで」
「だいじょうぶだよ」

 あなたは、どんな言葉に励まされますか?
 中途半端に励まされて、むしろイラッとしたり、傷ついたりしたことってありませんか?

「人を励ます言葉」って何だろう......こんなことを考えたのは、東日本大震災のとき。被災された人たちに、どんな言葉をかけたらいいのかがまったくわからなくて、モヤモヤと悩む日々を過ごした。
 震災直後は、テレビのコメンテーターも、公共のCMも、いろんな「励まし表現」を探っていたような気がする。被災者を励ましたくて、でも傷つけたくなくて、みんな慎重に言葉を選んでいた。ぼくもいろいろ考えたけど、どれもしっくり来なかった。

 あれから7年、ぐるぐると考えて続けてわかったのは、ぼくらが使う日本語には「"純粋に人を励ます言葉"が存在しない」ということだった。
 というわけで、今回は「励ます言葉」について考えてみたい。

「いじめる側」と「励ます側」の理屈

 授業や講演で、ときどき、こんなワークショップをする。
「いじめ」が描かれた小説を読んで、参加者に短い作文を書いてもらう。テーマは「いじめられている子を励ます」というもの。
 すると、多くの参加者は、「いじめられる側」に同情し、「いじめる側」を許せないと怒る。本当にメラメラと怒る。
 でも、提出された作文を読むと、だいたい6割から7割近くの人は、「いじめる側」が言っていることに近い文章を書いている。心情的には「いじめられる側」に同情していても、出来上がる文章は「いじめる側」の論理に近くなるのだ。
 どうしてこんなことが起きるのかと言うと、たぶん、「言葉がないこと」が関係している。

「人を励ます言葉」というと、どんなフレーズが思いつくだろうか。
 ワークショップで出てくる不動のトップ3は「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」。他にもいろいろ出るけど、この3つの地位が揺らぐことはない。
 でも、よくよく考えると、「がんばれ」と「負けるな」は、人を叱りつける時にも使う。「叱咤激励」という四字熟語があるように、日本語では「叱咤」と「激励」はコインの表裏の関係にある。
 一方、「大丈夫」というのも、最近では「no thank you」の意味で使われることが多い。「コーヒーもう一杯飲みますか?」「あ、大丈夫です~」といった感じだ。

 ぼくらが「励まし表現」の代表格だと思っている言葉は、時と場合によっては、「人を叱る言葉」や「人とやんわり距離をとる言葉」に姿を変える。どうやら日本語には、「どんな文脈にあてはめても、"人を励ます"という意味だけを持つ言葉」というのが存在しないらしい。
 ワークショップでも、「いじめられる側」に同情的に書き出された文章が、後半に進むにつれて「こんな奴に負けないでがんばれ」という論調が強くなるパターンが多い。これは裏返すと「自分を強く持て!」ということなんだけど、受け取り方によっては、「いじめられるのはあなたが弱いからいけない」というメッセージにもなる。

「弱いからいけない」――実はこれ、課題小説の中で「いじめる側」が言ってる理屈と、ほとんど同じなのだ。

「ひとりじゃない」――震災後の励まし表現

 普段使っている「励ます言葉」が、まったく対応できない事態。東日本大震災は、そういった出来事だった。
 堪え忍ぶ被災者に「がんばれ」は相応しくない(もう限界までがんばっていたから)。「負けるな」というのも変だ(被災に「勝ち負け」は関係ないから)。「大丈夫だよ」もおかしい(実際「大丈夫」ではなかった人たちがたくさんいたから)。
 そのうち、どこからともなく「ひとりじゃない」というフレーズが出回るようになった。被災者を孤立させず、連帯しようという思いを込めた新しい「励まし表現」だった。でも、これも受け取り方次第では「苦しいのはあなただけじゃない(だからガマンしましょう)」という意味になり得てしまう。

 多くの人に向けられた言葉は、どうしても編み目が粗くなる。「被災者」といってもさまざまだから、一つの言葉が全員の心に寄り添えるはずがない。「その言葉は今の心情のそぐわない」という人がいれば、そのたびに「言葉を探す」ことが必要だ。
 もちろん、震災は「言葉」だけで何とかなる問題じゃない。だからといって「言葉は二の次」でいいわけでもない。
 さっきのワークショップで気づいてほしいのは、「どんな場面でも人を励ませる便利な言葉なんてない」ということ。そんな「秘密道具」みたいな言葉は存在しない。
 でも、不思議なもので、ぼくたちは普段から「誰かの言葉に励まされる経験」はしている。やっぱり、「言葉が人を励ます」ことは確かにあるのだ。
 だから、ぼくは言葉を信じて、「言葉探し」を続けたいと思う。

「ハンセン病療養所」を生きた人

 とは言ってみたものの、そもそも「言葉を信じる」って、どういうことだろう?
 実際に「言葉を信じた人たち」が遺した名言、つまり「言葉遺産」から学ぶしかない。

昔の患者はある意味でみんな詩人だったんじゃないかな。自分じゃ気が付かないだけで。挫けそうな心を励まし、仲間をいたわる言葉をもっていたからね。

 発言者は、ハンセン病回復者の山下道輔さん(1929-2014年)。長らく、国立ハンセン病療養所で生活されていた方だ。
 ハンセン病療養所には、過去にこの病気を患い、治癒した後もいろいろな理由で、ここ以外に生活の場所がない人たちが暮らしている。
「いろいろな理由」というのは、たとえば、病気の後遺症があって介助や医療的ケアを必要としたり、長期間の入所を強いられたため社会で生活する術がなかったり、地域社会からの差別に晒されて「帰ってくるな」と言われたりと、本当に「いろいろ」だ。

 日本では長らく患者を隔離する政策がとられ、多くの患者たちが療養所に収容された。「遺伝する」とか「伝染する」とか、誤解や偏見を持たれたこともあって、患者たちはとても差別された。有効な治療法が確立・普及した後も、差別は続いた。
 これ以上の差別を避けるために、また身内に差別が及ばないように、療養所では偽名を使う患者も多かった。場合によっては、身内から本名を「捨てさせられる」こともあった。
 こうした時代状況の中、山下さんは1941年に12歳で療養所に入所した。それから2014年に亡くなるまで、療養所で暮らし続けた。ハンセン病関連の資料を集めた「ハンセン病図書館」の主任を務めていて、「歴史を伝える」ことに人生をかけた人だった。

「その人が生きていたという事実」を消さないための詩

 山下さんが入所した頃の療養所は、ひどいところだった。
 社会からの差別もあったし、横暴な医療者や職員もいた。現在なら「人権侵害」とされることもたくさんあった。食事も医療も乏しい。患者たちも「農作業」「土木作業」「重症者介助」なんかで働かないと、施設自体が立ちゆかない。そもそも病人だから病気はつらい。

 そんな中でも、患者同士の友情があり、愛情があり、笑いと涙の人情劇があり、職員の目を盗んで何かを企てようとする攻防戦があった。もちろん、複雑でややこしい人間関係もあったし、ケンカやいさかいもあった。
 陳腐な言い方だけれど、そこでは、ぼくたちと変わらない「等身大の人間たち」が生活していた。

 1949年の冬。山下さんの友人が亡くなった。療養所の外の畑に芋を盗みに行って、袋叩きにされたのだ。盗みはよくない。でも、敗戦後の療養所は食糧事情が悪くて、みんなお腹を空かせていた。彼は自分が面倒をみている重症患者に食べさせるために、あえて芋を盗みに行ったのだ。
 傷ついた彼が療養所に戻ってきて、どうなったか。許可なく外出したことをとがめられ、監房に入れられた(療養所なのに監禁施設があった)。それが祟ったのだろう。彼はその時の傷がもとで死んでしまった。絵を描くのが好きな人だった。

 昔の患者は私物をほとんど持てなかった。身元を隠している人も多い。遺族もわからなければ遺品もない。ということは、「その人が生きていたという事実」が遺らないということだ。そんなの悲しすぎる。
 だから、山下さんは友人のために追悼詩を詠んだ。

強い北風の吹く明方//鍔(つば)のない戦闘帽を斜に被った友は、それまで糞尿をふんばりださんとしてたのに......//泡を噴き、消え絶えた小さな懐炉を下腹の上で握りしめたまま、かつての日、己が描いた「冬の窓」の懸かったがくに貌(かお)をそむけて逝った......(「果てに......亡友瀬羅へ」)

「どうにもならない事態」から生まれる言葉

 詩を詠んだって、死んだ友人は帰ってこない。
 患者への差別が、すぐに消えてなくなることもない。
 それでも山下さんは、誠心誠意、この詩を詠んだ。
 せめて言葉で遺しておけば、いつか、誰かが、彼のことを思い、彼のために祈ってくれるかもしれない。
「言葉を信じる」って、きっと、こういうことなんだろう。

 自分の力ではどうにもならない事態に直面して、それでも誰かのために何かをしたくて、でもどうしたらいいかわからなくて、それでも何かしたくて......という思いが極まったとき、ふと生まれてくる言葉が「詩」になる。
 山下さんが言う「詩人」というのは、そういう言葉の紡ぎ手のことだ。
 昔のハンセン病療養所には、そんな「詩人」たちがたくさんいたのだろう。過酷な差別を生き抜くために、お互いに支え合う「言葉」が交わされていたんだと思う。

 なにか酷い出来事が起きたとき、「言葉は無力だ」と言われることがある。何を言っても「きれいごと」だと批判される。
 あの震災の後も、「文学なんか役に立たない」と言われた。「つべこべ言わず、ボランティアするなり、支援物資送るなりして、身体を動かすべき」とも言われた。
 ぼく自身、「言葉に関わる仕事」に引け目を感じた。

 でも、山下さんの言葉は、「どんなに困難な状況でも、言葉で人を励ますことを諦めなかった人たち」がいた事実を伝えている。大切な人を支えるためには、やっぱり言葉が必要なのだということを教えてくれている。
 実を言うと、ぼくは大学院生時代の2年間、山下さんの図書館でボランティアをしていた。山下さんの「歴史を伝える」ことへの執念に触れて、学者になることを志した。
 だから、山下さんの言葉は、ぼくにとっては家宝みたいなものだ。

 ちなみに、戦後の「障害者運動」は、ハンセン病患者たちが差別に立ち向かったことが原点(の一つ)なんて言われている。
 仲間のために言葉を諦めなかった人たちだからこそ、世間の差別に対しても、黙らずにいられたんじゃないか、と思う。

 前回、ぼくは、「この社会に『言えば言うほど息苦しくなる言葉』があふれている」と指摘した。「言葉」って、「たくさん"ある"言葉」が目立ってしまうけど、「そもそも"ない"言葉」にも目を向けないといけない。
「ない言葉」は、その都度、模索していくしかない。だから、3月が来る度に「励ますための言葉探し」を続けようと思う。
 あの震災が予期せず不意にやってきたように、言葉で大切な人を支えなければならない場面は、誰にでも、不意にやってくるのだから。


参考:『ノーマライゼーション――障害者の福祉』2007年10月号、特集「障害を越えた芸術交流」の山下道輔の発言

荒井裕樹(あらい・ゆうき)
1980年東京都生まれ。2009年東京大学大学院人文社会系研究科終了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科付属次世代人文学開発センター特任研究員を経て、現在、二松學舍大学文学部専任講師。専門は障害者文化論・日本近現代文学。著書に『差別されてる自覚はあるか――横田弘と青い芝の会「行動綱領」』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?