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一杯の珈琲は人を繋げるのかもしれない。

最近、珈琲を淹れる機会が格段に増えた。元々喫茶店にはよく足を運んでいたが、まさか自分で豆を選び、誰かの為に珈琲を提供することになるとは思わなかった。人生なにが起こるかわからないとはまさにこのことである。

きっかけは大学の前期にタイのチェンマイに留学をしてからだ。フィールドワークのテーマで山岳民族が栽培する珈琲豆について調査していたのだ。実際に車で5時間も掛かる山岳民族の村まで行き、そこで伝統的な暮らしをする山岳民族の人々の姿や広大な自然を見た。豚や鶏を自分たちの手で建てた家の庭に飼い、農薬を使わず自然なやり方で野菜を育て、そして珈琲豆も同じ有機栽培で栽培する。

かつて、彼らの暮らしは貧しく、ケシの栽培で身を立てていたが、タイ王室が自ら行ったロイヤルプロジェクトの支援によって彼らは珈琲豆の栽培を始める。案内してもらった山岳民族の方は珈琲豆を有機栽培で育てる事によって暮らしが変わっていったと言う。農薬を使わなくなった事によって環境が改善され、森が綺麗になり栽培した野菜や珈琲豆を自分たちの手で加工し、市場へ売りに行く事で金銭面でも改善された。ここで栽培された珈琲豆はタイだけではなく、世界へ流れてく。

私たちが普段飲む珈琲が多くの手間を掛けて栽培され、別の人の手に渡って国を渡っていく。バトンのように人から人へ。


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また、チェンマイで取材させてもらったカフェのオーナーの人々はみんな口を揃えて言う。


「珈琲やカフェの仕事を通して、やりがいを感じている。珈琲で人との繋がりができて楽しい。」


楽しそうに話すオーナーの人々の笑顔は同じだった。取材当初はいまいち珈琲と人の繋がりについて理解できていなかったが、自分で珈琲を淹れるようになった今なら分かる気がする。

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帰国してからすぐに近くの喫茶店で珈琲の淹れ方を学んだ。珈琲を淹れるために必要な道具を買い、初めて豆を挽き、フィルターに粉を入れ丁寧に丁寧にお湯を注いだ。香りが広がり、気分が落ち着いた。初めて自分で淹れた珈琲は雑味が出てしまったが、不思議と達成感があった。素直に楽しいと、そう思った。誰が淹れても同じ味がでる訳ではない。不思議なもので一人一人同じやり方でも違った味になる。どれも美味しいが、同じ美味しさではないのだ。自分で珈琲を淹れる一番の楽しさは自分だけの味を出すことが出来ることだと思う。気分によって変えてもいい。ミルクや砂糖を淹れてもいい。間違いもなければ、正解もない。それでいいのである。

そして先日、初めて人の為に珈琲を淹れた。大学の学祭でチェンマイの豆を仕入れて珈琲を淹れた。少しでも世話になった恩返しが出来ればいいと思ったのもあるが、何よりチェンマイで会ったカフェのオーナーの気持ちに近づければいいと思った。当日は自分が思っていたより多くの人が来てくれた。友人やタイ語を教えてくれた先生の同級生や大学の職員、様々な人種の人々。新しく知り合った人、前から知っていた人。一杯の珈琲がここまで色んな人を繋げるとは思わなかった。初めて誰かの為に珈琲を淹れてチェンマイで会ったカフェのオーナーの気持ちが分かった。様々な人が自分が淹れた珈琲を飲み、感想を言ってくれる。全員がありがとうと言う。

これだけで嬉しいし、更に美味しく珈琲を淹れようと頑張れる。

人が栽培し、人が加工し、人の手によって珈琲は完成する。誰かいないといけないのだ。必要じゃない人なんていないのではないかと思う。

そんな大層な話なのか?と思うかもしれないけど、私は両親という存在があって生まれたのと同じように珈琲も手間をかけないと栽培されないし、美味しさを追求すればもっと専門的な知識が必要になる。誰かが求めなければ生まれないものだって多いはずだ。一杯の珈琲が私たちのもとに運ばれるまで色んな人が関わり、顔も名前も知らない人の繋がりがあってこそのものだ。一種の言葉の要らないコミュニケーションなのかもしれない。



人が珈琲を生む。

珈琲が人を繋ぐ。

一杯の珈琲は誰かとの縁を繋いでくれるものなのかもしれない。


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