見出し画像

存在の連続性と現象学的世界の介在

なんとなくそれっぽい、少しばかり小難しいタイトルにしてみたが、今回はシェリー・ケーガンの著書の中で気になった議論についてこれを読んだ人の意見を聞いてみたくて書いている。

シェリー・ケーガンはイエール大学の哲学教授で『DEATH ~ 死とは何か』という著書が有名であり、今日の内容もその本に書いていた内容である。

ちなみに本はそれなりの値段がするものの、元の講義は前編youtubeで視聴可能である。

当然全編英語なので、英語でもさして問題がないという人は無料で見てみるのも良いのではないだろうか。

そして、今回の議論は人格の同一性についてである。

人格の同一性ということは『人格』の時間的な連続性の妥当性について議論だろうということで、今回は『存在の連続性』というタイトルにしたが、それに違和感を覚える人がいればそれは申し訳ない。

そんな人格の同一性に関する議論について、人格が同一というためのカギが何かという議論が重要になる。

そして、著書の中では3つの説が議論されている。

一つ目が『魂説』、二つ目が『身体説』、そして三つ目が『人格説』である。

それぞれの細かい説明をしているとそれだけで終わってしまいそうなので、知りたい人は実際に本を読んでもらうとする。

今回の議論の対象にしたいのは『身体説』である。

身体説は、『人格が同一であるためには同じ体を持っていることがカギである』と考える考え方である。

しかし、そうなるともし体が死んでしまったら体は腐敗してしまい、『同じ』体を維持することはできない。僕もそう思う。

しかし、著書の中では『最後の審判』がその反論の可能性として挙げられている。

『最後の審判』とは、世界の終末にイエス・キリストが現れ死者を蘇らせるというキリスト教の世界観である。

青の時にはもう既に人間は死んでおり、それを神が復活させるのだ。

その時、もう亡くなって燃やされたか腐敗した体を再生することによって復活するとされている。

そして我々はその世界観をどこか受け入れている。ということは、我々は概念的、理論的には身体の再生による人間の復活が可能であると思っているわけである。

そうすることによって我々は身体の死を生き延びることができると考えることができる可能性が出てくるわけである。

しかし、当然ながらこの議論は賛否両論であり、その反論が著書の中でも紹介されている。

その議論はこんな感じだ。

一度分解したものを再生することによってそれがあたかも復活したかに見えるものもある。

例えば、あなたの時計が動かなくなってしまい、それを直してもらうために時計の修理屋さんに行ったとする。

そこで修理屋さんの人があなたの時計を分解し、メンテナンスを施し、全く同じパーツを同じ箇所に戻す。

するとあなたの時計はこれまで通り動き出し、それをあなたは『復活』と呼ぶだろう。

これは再生によって復活するであろうという例である。

しかし、その反論として『ただただ一度分解されたものを組み合わせるだけでは、それは復活とは言わず、それは複製である』という考えである。

例えば、あなたに子供がいたとしよう。そして、その子供が積み木で大きな塔を建てたとする。

子供はその塔を仕事から帰ってきた父親に見てほしいと思っていたが、寝る時間になっても父親は帰ってこないので母親であるあなたに『お父さんが帰ってくるまで倒しちゃダメだよ』と伝えて眠りにつく。

それからあなたは父親が帰ってくるまで待っていたが、不注意にも肘が当たり塔を倒してしまった。

これでは子供が悲しむと思ったあなたはその積み木で全く同じ塔を作ることにした。

積み木には番号が振ってあって(実際にはそんなことはありえないが)、子供が作った時と全く同じ積み木を同じ場所に配置し、全く同じ塔を建てた。

そして、父親が帰ってくるとその塔を見て『〇〇(子供)が作ったのか、すごいな』と嬉しげだ。

朝起きてきた子供も自慢げに見せている。

その塔はあなたにとって子供が作った塔と同じ塔と言えるだろうか。

おそらく違うものだと感覚的に思うだろう。

この違いはなんなのか、それが僕もシェリー・ケーガンも分からなかった。

時計のケースは修理前と修理後で同じ時計だと言いたくなるが、塔の場合では『それは別物だ』と言いたくなるだろう。

その違いを説明するためにはやはり現象学的世界が介在せざるをえないように思える。

時計の場合は、修理前から修理後までの一連の流れを知っているからこそ、それは同じものだと言える。

つまり、連続性が存在する。

その一方で、塔のケースでは、塔を倒してしまった当人であるあなたの中で塔に連続性がない。

それはわかっている。しかし、父親や子供にとってはその一連の出来事は存在しないことになっている。

まるで、誰も行ったことのない島に立っている誰も見たことがない木は存在しないのと同じように。

つまり、父親と子供にとっては同じ塔であり、母親であるあなたにとっては別物であると思うのだろう。

しかし、これは時計のケースと塔のケースに明確な違いがあるという説明にはなっていないように思う。

というわけで、現時点ではその説明が不可能のように思える。

なので、ぜひ皆さんの意見が聞きたかったのだ。

この2つのケースに明確な違いあ貼るだろうか?

存在の連続性と現象学的世界の介在。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?