過去の自分に厳しく目の前の自分に甘い話
人はどうしても自分に甘い生き物だと思う。
自分で決めたことも出来ない、簡単なことを毎日続けることすらできない、何かというとすぐに楽な方へ行こうとする、そんな自分を許してしまうのだから非常に甘いと言えるだろう。
時々、自分に甘くない人はいる。そういう人たちのことを『ストイック』と読んだりするが、それはストア派という哲学からきている言葉である。
ストア派の哲学者で有名なのはエピクテトスやアウレリウスだろうが、彼らのことはただマゾヒストに見える。
つまり、僕も自分に甘い人間だということである。
ただ、ここでもう少し解像度をあげる必要があるように思う。
なぜかというと、多くの人は自分が甘やかした自分を非難の対象と捉えるからだ。
自分が甘やかしておいて、その甘やかされた自分のことは嫌いなのである。
なぜこんなことが起きるのかというと、おそらく我々が甘いのはあくまで目の前の自分だからではないだろうか。
目の前の自分が過去の自分に変わった瞬間、まるでドップラー効果のように全く違うものへと姿を変えて、それは非難の対象へと変わるわけだ。
たとえば、資格の勉強をしないとと思いながらYouTubeを見ている自分には甘い。
まだ時間があるから大丈夫だと思い込んでいるのかもしれないが、そんな風に何かと理由をつけては自分に『しなくていいよ』の許しを出す。
しかし、それが次の日になるとどうだろうか。
『なんで昨日時間があったのにあいつは勉強もせんとしょうもないyoutube見ててん。ちゃんとやっとけよ』
と責めたくなったことがないだろうか?
おそらく多くの人が経験済みのことであろうと思う。もちろん僕も経験済みだ。
実際は全く同じ人なのに、今目の前にいるか過去にいるかで全くの別人に見えるということだ。
つまり、僕たちは皆自分に厳しいことには厳しいんだろうと思う。しかし、その対象はあくまで過去の自分、もう通り過ぎた自分に対してであるということなのだ。
誰かが、毎日を大切に過ごすことをホテルに例えていた。
自分という人間はホテルで、そのホテルの宿泊者も自分である。逆に自分しか宿泊しない。
少し想像してみてほしい。もしあなたがホテルに行った時、部屋が全く掃除されておらず汚いままだったらどうだろうか?
嫌な気持ちになるどころか、怒り狂って予約を取り消すまであるのではないだろうか?
ただ、その逆で自分たちが出て行く時は、次に泊まるのは自分じゃないから、しかもおそらく掃除がなされるからということでたっぷりと散らかして帰るのではないだろうか。
もちろん実際のホテルではその通りだ。僕は民泊清掃のバイトをしていたこともあるが、まぁ見事なまでに散らかして帰ってくれるバカどもがたくさんいた。
それは彼らにとってその宿がもう自分とは離れた存在だからであろう。
しかし、自分というホテルはそうもいかない。今泊まっているのも自分、次泊まるのも自分、なんなら清掃員も自分だ。
前の日に部屋をきちんと掃除していないと次の日に泊まる自分が嫌になるのは理論上理解はできるはずだ。
しかも辛いことに自分というホテルはキャンセルが効かない。返金も受けられない。
だからこそ、毎日綺麗な部屋で自分というゲストを迎え入れる必要があるわけだ。
そのためには今すべきことをきちんとしなければならない、それも頭では分かっている。
しかし、それができないのは僕たちが目の前の自分にとことん甘いからではないだろうか。
その日の夜には今の自分の行動を非難したくなることも分かっていながら、見たくもない誰かのSNSに齧り付いているのである。
来週の月曜日には、大阪府の公立入試がある。当然僕が教えている生徒たちの多くが受験することになっている。
そこまでもう一週間もない状態で基本の基本が全く身についてない生徒は決して少なくない。
そして、それらの生徒が口を揃えて『もっと前からやっとけばよかった』とこぼす。
その都度僕に『夏からずっと言うてるやんけ』と怒られシュンとしている。
ただ、大人でもできないのに子供にできるはずがないと言われればそれもそうである。
目標やゴールがあれば変わるというが、実際そんなシンプルなものでもない気がしている。
過去の自分に厳しく目の前の自分に甘い話。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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