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ヤンキーとセレブの日本史Vol.15 安土桃山時代

皆がヤクザの戦国時代から全国統一につながっていく流れを作ったのは、御存知の通り信長、秀吉、家康です。


織田信長の時代

信長と言えば、おそらく日本史上で一番ヤンキーっぽい人というイメージではないでしょうか。若い頃はみんなに「うつけ(バカ)」と言われて有名なヤンキーでした。
織田信長は尾張(愛知県)の小さな組の跡継ぎでした。名をあげたのは静岡の今川組というそこそこ有名な組を倒した桶狭間の戦いという抗争でした。

そのころ、室町幕府の将軍足利義輝が反乱した大名に殺され、その弟の義昭は福井に逃げたのですが、その弟は将軍として京都に戻ることを狙っていました。そのための用心棒を探しており、最近有名になってきた信長に頼るようになりました。
信長は護衛をしてやり、義昭は無事に京都に戻って将軍になれました。信長はその褒美に堺、大津、草津のシマをもらいました。

ここで堺をもらおうというのがセンスのよいところです。堺は前回でもお話した通り、チャカを始めとした重要な物資が手に入る貿易都市です。
そうして、信長は勢力を伸ばしていくのです。しかし、将軍は力をつけていく信長がだんだんと怖くなってきます。ヤキ入れの命令を出して、地方の組や延暦寺や本願寺などの寺ヤクザの信長包囲網が出来てきて、抗争も激しくなります。色々と苦労した末に勝った信長は将軍を追放して室町幕府を滅亡させました。
信長は寺ヤクザには容赦なく、延暦寺は焼き払いますし、一向宗の一揆では皆殺しにします。普通のシマであれば、そこの組長を倒せば、パンピーは従いますが、寺勢力は信仰心で固まっているので、地元の組長のタマをとったところで態度を変えませんので、滅ぼすしかなかったのでしょう。
その後も抗争を広げ、近畿地方の周辺をシマにして、残りの田舎も制圧しようとしていた矢先に、部下の明智光秀に暗殺されてしまいます。

信長が強かった理由

信長が強かったのは合理的だからでした。合理的というのは、ゲームとしての抗争のルールを良く理解して、その上で最も勝てることをしたという意味です。
この時代の抗争で勝つための大前提は、単純な腕っぷしの強さではなく、武器や兵隊を養うための金も含めた組の力で決まります。シノギの大きさがものすごく重要なのです。そして、暴力の強化にもチャカ(鉄砲)が必要です。チャカは一度買って終わりではなく、消耗品である火薬と玉を安定的に手に入れるルートがあってチャカははじめて強い武器になります。山梨の武田信玄とか騎馬隊は強かったのですが、内陸でチャカのタマなどを始めとした物資の調達や中心地の京都に遠いことも全国制覇に至らない原因でした。チャカ自体は国産化していて、多くの組も揃えていたのですが、信長だけがチャカをもっていたわけではなく、チャカを抗争で十分に使えるだけの体制を作ったことがケンカの強さの秘訣でした。
地理的な要因が、必要なブツを手に入れたり、重要な拠点へのカチコミに行きにくいこともハンデになったりして、京都・堺に近い愛知であったことも信長が有利な点でした。

信長はシマのシノギを大きくする工夫を色々とやりました。楽市楽座などと言われる自由に商売できる規制の撤廃(すべての地域でやったわけではないし信長が最初にやったわけではない)や、関所を廃止したりして流通を良くし、商売を活発にするとともに、自分のコントロール下に置きます。こういう規制緩和の政策は、これまで既得権益をチューチューしていた勢力の力を削ぐことにもなり、一石二鳥の面もあります。
シマのシノギを活発化して、アガリを吸い上げられるようにして、堺からチャカと火薬を大量に調達したのです。キリスト教の布教も許して、ヨーロッパとの貿易をしました。
また、有力な組と親戚関係を構築し、無駄な争いでの消耗も少なくしました。
また、茶道を奨励し、茶器の価値を高めたり、輸入品を手に入れることで、部下や周りにすげーといわれるような仕掛けをたくさん作りました。

とはいえ、味方に裏切られることもしばしばあり、予想外に攻め込まれピンチもたくさんありました。そして、最後は手下の明智光秀に殺されてしまうのですが、信長は全国統一にかなり近いところまで来ました。
信長が強かったのは、組づくりのコンセプトが、不確定なことが多いなかで、どんな状況でも勝てる強さと柔軟性にあったからだと思います。この時代、組の数が多すぎて全部の情報など取ることは出来ませんし、抗争を起こせば、その抗争の影響で他の抗争も起きるという先が読めない時代です。信長も同盟を結んでた味方にだいぶ裏切られて攻められたりしていたので、全国の組の動きは読み切れていなかったと思います。
そんな中では、シノギの強さに基づく強力な武力、そして一目置かれることでの周囲への牽制でできるだけ敵を減らすこと。その上で不意に抗争になっても勝てるようにしておく暴力にも強い組づくりが必要になり、信長はそれをやってきたから強かったのではないでしょうか。

信長は、うつけ(=ばか)と言われていましたが、抗争ゲームのルールを最も良くし、不確実性が高い中で最も勝ちやすい状況に持ち込める合理的な判断をしてきたのだと思います。
ゲームのルールを理解していない人からしたら非合理な行動をしてバカに見えるでしょう。逆に現代では楽市楽座などを取り上げて革新的とほめる人もいますが、それは現在の経済倫理の価値観に合致しているように見えるというだけであり、現代の物差しで信長を測っているだけです。信長も既存勢力の力を利用した方が良い場所では、楽市楽座をやっていないケースもあります。
この時代の抗争で勝つ組づくりにおいて、最も合理的な判断ができたことが、信長の強さの理由だったのではないでしょうか。
信長はど派手なヤンキー趣味の安土城も作りましたが、これも今までの常識に反して、守りやすい山ではなく人が多い平地に作り、デザインもとても目立つことで、みんなにすごさを見せつけるためとシノギをやりやすくするためでした。

豊臣秀吉の時代

農民から織田組の構成員になり、下っ端から出世していったのが秀吉です。
明智光秀に信長が殺されたときに秀吉は岡山で毛利組とドンパチやっていましたが、親分が死んだと聞いて毛利と手打ちをして京都にすぐに戻り光秀のタマを取りました。
跡目の長男信忠も明智に殺されていたので織田組は跡目が決まっていません。
そこで有力組長が清州城という組事務所に集まり、会議をします(清須会議)。そこで信長の長男の息子でまだ幼い三法師が跡目になることが決まり、秀吉はその後見人になります。
組の跡目争いはいつの世の中ももめるものです。信長の三男&それを推していた柴田勝家と秀吉の間で抗争になり、最終的に秀吉が勝ち、組長に実質的な王手をかけました。
徳川家康もこのまま秀吉が織田組を乗っ取るのは気に食わないので、信長の次男をかついで抗争をしかけようとしました。しかし、少し小競り合いをした後に、秀吉は強い家康とは戦いたくないと方針転換し、信長次男と手打ちしたことで、家康は担ぐ神輿を失ってしまいました。
こうして実質の組長になった秀吉は、全国を平定していきます。朝廷からも関白という超えらい官位を受けるようになりました。関白は平安時代にイキりまくっていた藤原家がつくった天皇を補佐する役職です。この時代は天皇にそんなに強い権力はありませんが、その権威は未だに絶大です。秀吉は、自分の命令を天皇の命令かのように出せるようになりました。

■なぜ征夷大将軍ではなくて関白か
秀吉はヤンキーの最高の地位である征夷大将軍ではなく、セレブの最高の地位の関白になったのかは謎です。ちなみに信長は朝廷から征夷大将軍でも関白でも好きな地位を選んでいいよと言われていたのに選ぶ前に死んでしまいました。
農民の出身の秀吉は武士の家出身ではないので征夷大将軍になれなかったからから、仕方なく関白になったと言う説が強いです。ならセレブになるのはもっと無理じゃんと思いますが、そこは裏技です。秀吉はセレブの養子にしてもらって形式上セレブの家のものになることで、セレブの最高地位関白を手に入れました。
じゃあ同じことを武士の家でもやれば征夷大将軍になれたじゃんという話ですが、織田信長に追放された足利義昭が一応まだ名ばかり征夷大将軍をやってました。義昭は秀吉を養子にすることを拒否りました。
武士なんて秀吉の子分にもたくさんいますが、形式だけとは言え親子関係を結んでも自分のメンツを潰さない武士は足利将軍家だけです。セレブはヤンキーとは違う世界なので、親子関係を持っても別に自分のメンツを潰すことになりませんが、ヤンキー同士の間では親になったほうが上と皆に見られてしまいます。足利将軍家に拒否られたら秀吉としてもどうしようもなかったのでしょう。
ヤンキーの中で偉くなりすぎたせいで選択肢がなくなってしまったのです。秀吉がもっと偉くないうちに誰かの養子になっておけばよかったと後悔したかどうかは知りません。

家康は秀吉が気に食わないのですが、ガチでやりあえば大きなダメージを受けます。それは家康より有利な立場に立っていたとはいえ、秀吉も同じです。なので、秀吉は家康を懐柔しにかかります。自分の妹や母親を人質に差し出したりしました。最後は秀吉はこっそり家康に土下座までして、みんなの前で自分に頭を下げてほしい(秀吉の方が上だと認めてほしい)と懇願します。秀吉は農民の出だったので、子分になっている組長たちにも内心馬鹿にしているやつらがいます。だから、超強い家康が秀吉を上と認めることがどうしても必要だったのです。
ヤンキーの親分はナメられたらおしまいです。他の大勢の子分の前でメンツを保つためには、秀吉は裏で頭を下げることも厭わない性格でした。

権力をとったらすること

その後、秀吉は九州、関東、東北も制覇して全国統一をしていきます。
権力をとったらまずやることは、自分以外の勢力の力を弱めてシマのみかじめをきっちり取ることです。それが「太閤検地」という政策です。
鎌倉時代から地元のヤンキー(守護大名など)が、シマを広げることで力を蓄えてきました。なので、自分以外の勢力が強くならないようにシマの支配権を取り上げなくてはなりません
これまで、地元の組は村ごとに名主という役職を作って、シマの中からカツアゲさせていました。秀吉はこの制度をなくして、農民個人が責任をもって年貢を自分で納めろよという制度に変えました。間に地元の組の息のかかったチンピラをはさまずに、直接農民と秀吉の関係を作ろうとしました。その見返りに、土地を直接耕す人にその土地の所有権を与えます。農民は名主やその上の地元の組織の子分ではなく、秀吉の子分という位置づけになり、自分の土地を持てるようになります。長さや米を計るマスも統一して、しっかりみかじめをとれるようにします。
これは秀吉が農民出身だから農民に優しくしようという類のものではなく、自分の敵となる勢力がでないようにシマとシノギを握ることが目的です。秀吉は全国の戸籍をつくり、田んぼの面積もきっちり測り、みかじめをしっかり自分が取れるようにしました。みかじめはアガリの2/3を持っていくという暴利でした。

農民に優しくみえる政策とバランスを取るために、刀狩りも行われます。農民にシマを渡して力をつけて一揆でもされたらたまったものではないので、集めた武器は大仏殿の材料にすると言って武器のカツアゲをして農民が反乱する力を奪います。
その上で、武士と農民を分ける「身分統制令」をだして、武士と農民を区別します。
これは、シノギと暴力を切り離すことで、自分に歯向かう強い勢力をなくすことにつながります。どんなにケンカが強いヤンキーでもシノギの元になる農地は秀吉が部下に与える形になることで、勝手に力をつけることができないようになります。反対にシノギの元となる農地を持っている農民からは暴力を取り上げることで、例えカネや不満を蓄えたとしても一揆などの抗争ができないようにしています。

世界の情勢

戦国時代にはヨーロッパから日本にわざわざ来る外国人もたくさんいました。もちろん貿易自体も目的ですが、キリスト教のカトリックという宗派は、後から出てきたプロテスタントという宗派にシマを荒らされて困っていたので、海外にシマを広げにくるという裏目的もありました。

ヨーロッパ人の持ってくるものは高く売れるので、みんな貿易をしたがります。特に九州の組はヨーロッパとの貿易のシノギを奪い合おうと必死です。ただ、秀吉に組同士の抗争は禁止されているので、抗争ではなくヨーロッパ人のご機嫌取りの競争です。
そんな中、長崎の大村組がやらかします。自分のシマをカトリックの教会に寄付したり、日本人を奴隷として海外輸出したりする仁義もないことをやっていたことが発覚したのです。
日本では、農民を土地にしばりつけて支配してきました。土地を与えて守ってくれるから、そこをシマにする親分に従うという形で人を支配していたので、新たにシマを得るには土地を占拠する必要がありました。しかし、宗教はこれと違うシマの広げ方をします。信徒にしてしまえば、その土地の親分よりも、その宗教の親分の言うことの方が絶対になるのです。
だから信長は本願寺を恐れました。せっかくシマをとっても、そのシマの住人が一向宗を信じてしまえば、信長の言うことよりも本願寺の言うことを聞くようになってしまうからです。
キリスト教もそれと同じで、わざわざスペインから兵隊を連れてこなくとも、日本で布教して日本人をキリスト教徒にしてしまえば、現地で言うことを聞く兵隊を作り出すことができます。シノギのためにそんな仁義もないことをするなんて許せないと秀吉は怒ります。そして、日本から宣教師を追放するようにします。
ただ、ヨーロッパとの貿易は儲かるシノギなので止められません。貿易を続けていていると宣教師が紛れ込んできます。結局最後は見せしめで長崎のキリスト教徒と宣教師たちをぶっ殺してスペインと絶交したのです。


昔悪かったM君の話

ヤンキーならよそのチームがシマを広げに来ていると知れば警戒するのは当然ですし、自分も同じ様にシマを広げようと思うのも当然です。

私の昔悪かった友人にM君という人がいます。M君は地元でカツアゲばかりしていたとのことですが、なんでカツアゲを始めたのか聞いたことがあります。
M君が小学校5年生のときに、地元の夏祭りがあり、おじいちゃんが5000円のお小遣いをくれたそうです。M君は何を買おうか考えながらウキウキしてお祭りに行きました。
ところが祭りに行く途中にヤンキー中学生に絡まれます。中学生は数人で囲んでM君を脅したようです。M君は本当に怖くておじいちゃんにもらった5000円を渡してしまいました。その時の怖さと悔しさは一生忘れられないとM君は言っています。
M君はこのときに学んだと言います。「自分より弱いやつからはカネをとっていいんだ」と。こうして中学に進学したM君は地元でカツアゲに励むようになったとのことです。(M君は今は更生してちゃんと働いています)
ヤンキーは、ヨーロッパ人が世界でシマ荒らししているところを見たら「自分もやられないように気をつけよう」とは思っても、まさか「自分がやられて嫌なことは他人にはしないようにしよう」とかは思いもしません。一流のヤンキーであれば、M君と同じ様に「自分も世界に出て、自分より弱いやつのシマを手に入れたい」と思うはずです。

信長も日本統一の後は海外に打って出るという考えを持っていたという説もあります。決定的な証拠はない話ですが、一流のヤンキーだったら、当然そう考えるでしょう。

朝鮮出兵

秀吉も信長の遺志を継いで海外に打って出ようと思います。
まずは中国(明)を倒してシマにしようと思います。しかし、明は直接攻めるには遠いので、まずは朝鮮を攻めてそこから明に攻め込もうとしました。最初は準備の整っていない朝鮮軍を圧倒していたのですが、途中から明が参戦してくると戦況も悪くなってきます。
仕方ないので、一旦休戦して手打ちの道を探ることになります。
しかし、この頃年老いてきた秀吉は短気で横暴になってきており、明に手打ちの条件として皇帝の娘と天皇を結婚させろとか、朝鮮には人質に王子と大臣をよこせとか、相手が飲めるはずもないめちゃくちゃな条件を出します。手打ちの使者に選ばれた子分は、こんなもの出したらマジでやばいと思い、内容を書き換えて交渉しましたが、秀吉は明からの返信に自分の言った条件が入ってないと激怒して、再度カチコミをはじめます。
今度はしっかり抗争の準備をしていた朝鮮と明にボコボコにされます。子分たちも抗争が嫌になってきた中、秀吉が死んでしまいます。これでようやく無駄な抗争から開放されるとヤンキーたちは帰っていきました

秀吉の跡目

秀吉には男の子がいなかった(息子たちは早くに死んでしまう)ので、甥の秀次を若頭(次の組長)にしていました。
しかし、若い側室の淀殿が男の子(秀頼)を産みました。秀吉は自分の子を跡目にしたいと思い、難癖をつけて、秀次を切腹させてしまいます。
これで跡目は幼い秀頼になります。4歳で成人式をさせられて若頭になりました。
死んだ後に自分の幼い子どもに跡目を継がせるというのはとても難しいものです。
古くは天皇家が藤原組や平氏一門に幼い天皇を操られた歴史もありますし、鎌倉幕府でも、室町幕府でも同じようなことは起きています。自分が死んだ後に後見人になった奴が、子ども親分を補佐をするという名目で、実質の権力を持っていくのは極道の当然の作法です。秀吉だって信長のオヤジの実の子どもから権力奪ってますし。
秀吉も年を取っていたので、秀頼が大きくなるまで生きられないというつもりでその準備をしていました。
一人の子分に権力を持たせると自分の息子を操るかもしれないので、複数の子分に権力をもたせることにしました。
実際に政治を行う担当として、石田三成を筆頭にした五奉行。それと五奉行の相談役として徳川家康を筆頭にした五大老という役職を作りました。政治を動かす実権を持つのは五奉行ですが、実権を持たないベテラン勢にお目付け役をさせることで、どちらかが好き勝手できないようにするとともに、それぞれが5人ずつでお互い牽制できる仕組みです。完全に人を信じてない体制です。
一応秀吉は徳川家康が一番信用できるとして、五大老の筆頭にしていますが、死ぬ間際には5人に誓約書まで書かせる念の入れようでした。
しかし、ここまでして、秀頼の跡目が盤石にしようとしているということは、秀吉の死後に子分たちが言う事聞かなくなるリスクがめちゃくちゃ高いと思っているということの裏返しです。

更に言えば、秀吉の子分には2つの派閥が出来ていました。極道のように武闘派と穏健派の2つの勢力がありました。加藤清正をリーダーとして武力でなんでも解決しようとしている武断派、石田三成をリーダーとして武力ではなく政治での解決を主軸とする文治派の2つがありました。
武断派は朝鮮出兵の際に前線で戦って大きな損害を被りました。文治派は国内で後方支援をしていたので、そんなに痛手は被っていません。大損した武断派はちゃんと前線を支援しないで、痛い目にもあっていない石田三成にかなりムカついていました。そんなこともあり、秀吉が死んだら派閥の争いが大きくなるのも目に見えている状況でした。

家康の天下取り

案の定、秀吉の死後、家康が動き出します
秀吉が禁止していた有力な組との結婚による同盟をやりはじめます。また、武断派が三成が朝鮮出兵の褒美を出さないと泣きついてくるので、ケツを持ってあげることにして、こいつらの組とも身内同士を結婚させて同盟を作っていきました。確実に自分の味方になる勢力を増やしています。
家康は、秀吉との約束を守るつもりはなく、自分が組の権力を全部奪うつもりでいました
三成は、秀吉に気に入られて出世していることもあり、秀吉にとても恩義を感じているので、遺言通り秀頼を組長にした組を守っていくつもりでいます。
普通は正式な跡目の秀頼を抱えている三成の方に大義があるのですが、派閥争いの中で、三成はめちゃくちゃ嫌われていたので、家康につく組長も多くいました
それは、家康が分断工作を行って、豊臣組の中での対立を激しくさせたからでもあります。

最後の仕上げとして、家康は福島の会津に気に入らないやつをシメに行くといって、本拠地である組事務所(大阪城)を留守にしました。この隙に三成が攻めてくると読んでいました
そこで、三成と三成に従う組長を一網打尽にすることができれば、自分が天下を取れると読んでおり、三成はその通りに動きます。
三成が挙兵したとき、家康は栃木のあたりにいましたが、ゆっくり江戸に寄って準備してから西に向かいます。岐阜県の関ヶ原で抗争が始まります。家康の軍を東軍、三成の軍を西軍と言いました。
家康は西軍の中にもたくさんスパイを作っていたので、三成の作戦は邪魔されうまくいきません。たった6時間で家康の勝ちが決まります
三成は追われて捕まって殺されました。

安土桃山文化


信長、秀吉の時代はヤンキー丸出しの文化の全盛期です。
戦国時代のところでもお話しましたが、この時代は、大勢に広く派手にすごさを見せつけることが、自分の強さを納得させるための手段なので、建築も派手になります
ヤンキー文化はセンスが悪いから派手なのではなくて、統治のために合理的だから派手なのです(別にセンスが悪くもないですし、悪いと思っているのは見る人の主観によるものです)。
加えてヨーロッパの輸入品も入ってきて、豪華さや当時の日本にはなかった感覚による奇抜さをより一層高めることになります。

信長の安土桃山城は建ててから6年で燃えてしまいましたが、赤や青の壁面の上に金色の天守が乗るというとてもヤンキー色ゆたかな建築でした。
また秀吉は聚楽第という超派手な建物を作りました。農民上がりの秀吉は、天下をとってもやはり出自のコンプレックスがあったようです。だからこそ、自分のすごさを見せつけるための大きくて金ピカでゴージャスな建物が必要でした。そして、そこでパーティーを繰り広げるのです。
信長も秀吉も金ピカでいかつい絵を描く狩野派という絵師集団の絵を好き好んで飾りました。
今でいうと、ちょっと怪しいことして大きくなった会社がハクをつけるために六本木ヒルズにオフィスを構えたり、その社長がタワマンを買ってパーティーするような感じでしょう。
秀吉は金ピカの茶室なども作るのですが、これが千利休と揉める原因にもなりました。千利休は前回堺の話でも出てきましたが、ガチの文化人です。ガチの文化人はヤンキーの派手な美術をあまり好まず、見る側にも教養が求められるもっと洗練された美しさを好みます。それで秀吉と意見が対立して最後は切腹させられてしまいました。

また庶民の文化では歌舞伎の原型となる「かぶき踊り」なども発生しました。
女の子が男の格好をして踊るもので、出雲阿国という人が元祖だと言われています。
今では歌舞伎は日本を代表する伝統芸能だとされていますが、出雲阿国の演目は「茶屋遊びで遊女を口説くかぶき者のモノマネ」でした。今風にいうと、キャバ嬢を口説くDQNのモノマネです。
江戸時代になってからの話なんですが、当初のカブキは若い女の子が踊るので、だんだんとエロいことが始まり、風紀を乱すということで女性が演じることが禁止されます。それで少年が演ることになるのですが、今度は少年相手のエロいことが始まり、おっさんだけのカブキになります。おっさんでは多くの人にとってエロさがありません(しかし、この時代は同性愛は現代よりも一般的に行われており、おっさんが相手するエロい商売も続きました)。そこから歌舞伎は芸を磨き今の地位を築くのです。
キャバ嬢を口説くDQNのマネをしていた出雲阿国も日本を代表する伝統芸能になるとは思ってもいなかったでしょう。
文化は芸とコンプラを磨くことで社会全体に受け入れられるようになります。きっと200年くらい先の未来では、国立美術館に族車が「国宝 ブチ上げスタイルCBX」とか書かれて展示され、化石燃料のエンジンをいじれる職人もいなくなった中で、技術を受け継いだ数少ない職人が人間国宝「族車職人」として皆に尊敬されるのではないかと思います。人殺しの道具だった刀でもそうなれるのですから、きっとヤンキー文化も国の重要な文化になれるはずです。

その他にもヨーロッパの影響を受けた服や工芸品、お菓子なども流行りました。金平糖やカステラはこの時代に入ってきたものです。

また、朝鮮出兵では人をたくさん拉致ってきましたが、その中には陶器職人などもおり、その職人たちを働かせて佐賀県の有田焼など有名な陶磁器の産地が各地で生まれるようになりました。

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