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みんなとってもおつかれさま

ああ、おわった。ようやくおわった。

子どもたちの生活発表会がようやく終わった。
生活発表会とはいわゆるおゆうぎ会、のようなもので、私が小さい頃は「みてねのかい」と呼んでいた、あのあれ、だ(私は馴染みのない名前だったけれど全国区でこの呼び方らしいですね。びっくり)。
娘たちの園では県内でもそれはそれは大きなホール(うーたんとかワンワンの地方公演があったり有名アーティストがコンサートをしたりする)を貸し切って行うのだけど、何から何まで少々大ぶりだ。
リハーサルは二回も行われるし(今年は三回だった)、当日に向けて座席指定券や駐車券が配布される。私は田舎の生まれで田舎の育ちだし、今も田舎に暮らしているから、どうにもこれが田舎の幼稚園の子どもたちのおゆうぎ会にしてはちょっとシュールに感じてしまう。
直前の金曜日は息子たち年少組の最終リハがあり、土曜日には娘たち年長組の最終リハがあった。
指定された時刻に指定された服装で送っていき、指定された時刻に指定された場所までおもむく。
その都度、先生からの当日に向けての連絡事項―年少さんは水筒いりませんが年長さんはいります(なぜ)、とか、なんちゃらのマークのところから入ってくださいとか、どこそこの駐車場には停めないでくださいとか、当日は工事のため近隣が片側通行ですとかとかとかとか!―をいいお耳で受け取って、当日に備える。
なにひとつ取りこぼさないようにと本番のその日を終えるまでうすい緊張感が切れることはなかった。

当日の園長先生のごあいさつで「年長児の担任が、仕上がりが間に合っていないのではと前日のリハーサルの後は大変落ち込んでおり…」と話していた。
先生のプレッシャーも相当のものらしい。
前日の楽屋裏へ行って「だいじょうぶよ。仕上がりとかぜんぜん我々気にしてないよ。わちゃわちゃしてもびしっと決まっても、どちらでも感激と感動で泣くから心配しないで。あなたたちの努力と愛は日々しっかりと受け取っているよ」と伝えたい。

確かに当日、これを言っていたのか、と思い当たるごたごたっとした部分は垣間見られたけれど、とうぜんもちろんすごく素晴らしかったし感激した。
今年は息子が年少児、娘が年長児ということもあって、「はじめてのはっぴょうかい」と「さいごのはっぴょうかい」が同時にお目見えした。感動しないはずがない。
年少さんを見れば四月には泣いてばかりいたのに、ああこんな大きなステージでのびのびと楽しそうに立派に役をこなしている、と泣けてくる。
わずか三歳と四歳の子どもに見事な達成を味わわせてくれた先生に頭が下がる。
たどたどしい姿も、調子がすこしはずれた歌もすべてかわいくて愛しかった。
年長さんを見ればどうしたって三年間が走馬灯のようによみがえり、どの子を見ても泣けてくる。
泣き虫だったあの子が、ぷくぷくとまだまだ赤ちゃんみたいだったあの子が、やんちゃばかりしていたあの子が、みんな凛々しい表情で自分の持ち場できちんと役を果たしていた。
三年間の成長と卒園へのさみしさといろんな感情がないまぜになって両目はずっと潤みっぱなしだった。

長女が幼稚園に入園したころは「そんな立派な発表会とか別にしなくてもいいのに、練習も大変だし、練習する時間でおにごっこでもしたらいいのに…」と思っていた。実は。
思っていたのにすっかりまんまと幼稚園の手の内で感動と感激をありがとう、と思うようになり、そして思惑通り、下の子(迷っている部分もあるのだけど、そのこともまたいつか書きたい)もぜひお願いしますと頭を下げたくなってしまうからほんと単純だな、と思う。

帰宅の頃にはすっかり日も暮れて、疲れたから帰ってささっと鍋でもしようか、冷蔵庫に豚コマがあったな、と考えていたけれど、子どもたちが「お子様ランチが食べたい!」と叫び倒したので近所の和食が食べられるファミレスのようなところへ行った。
がんばったもんね、いいよね、と今月の(も)きびしいお財布に言いわけをしながらおいしいお蕎麦などをいただく。
上の二人はお子様ランチだけでは足りず、末っ子もミニうどんだけでは物足りなさそうにしていたので、さらにお蕎麦をひとつ追加。
季節のいろどりで牡蠣の天ぷらが乗っており、長女はそれもおいしそうに食べていた。
ああ、成長したのね、お子様ランチがもうサイズオーバーなんだなぁ、牡蠣だっておいしく食べられちゃうんだなぁ、となんだかとても感慨深かった夕食だった。
おいしかった。

また読みにきてくれたらそれでもう。