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池口恵観氏と平壌でのFA交渉

 2010年秋。ぼくはひとりで平壌を旅していた。とはいえぼくひとりに案内員ふたり。ぼく専属の運転手さんまでつく大名旅行。お大尽だねこりゃと少しぼくは戸惑っていた。

 その時期、北朝鮮に全く日本人がいなかったわけではない。確か和田春樹東大名誉教授の顔を見た記憶がある。そして池口恵観氏とその関係者。行きの飛行機と帰りの飛行機、宿泊先の高麗ホテルがいっしょだった。

 池口氏と北朝鮮の関係は深い。過去何度も訪朝している。

 そして池口氏と広島カープの縁も深い。阪神に行った金本知憲、阪神に行ってカープに帰って来た新井貴浩、石原慶幸といえば毎年オフシーズンになると池口氏の下で護摩行をすることで有名だった。

 さらにぼく。小学生からの筋金入りのカープファンである。もう35年くらいファンをやっている。

「紅いものは何でも好きだな?」という人。余計なお世話である。

 池口氏一行とは朝食の時間にだけ顔を合わせた。朝食はひとり。夜はぼくは夜の単独日朝外交、女性接待員と話し、男性接待員とたばこを吸うことに忙しかったので顔は合わせなかった。何日目かの朝、池口氏の関係者の方が朝ごはんでもいっしょにと誘って来た。

 断る理由はない。池口氏の真正面の席に座ると関係者が「やっぱり真正面の席に座りはった。先生とご縁があるんやな」という。面映ゆい。関係者の人にあれ食えこれ食えと色々勧められたことを覚えている。バイキング形式なのに。そしてぼくは特に朝は小食なのに。

「お兄さん、ひとりで来たんか」と聞かれた。「ぼくひとりです」。これにはかなり驚かれた。ひとり映画館、ひとり焼肉の経験はある。イッツ・ア・スモールワールドを中学校の修学旅行の時にぼくは初めて見たが、これは「世界はひとつ」というグローバリズムの前に跪けというディズニーランドの傲慢にして暗澹たる世界観の象徴と感じた。

 だからぼくにはひとりディズニーランドの経験はないが、それをはるかに上回るのが「ひとりピョンヤン」「ひとり北朝鮮」。これに異論はないだろう。こうしてひとり道を極めたぼくに怖いものなど無い。池口氏の前で遠慮なく朝食をもぐもぐと食べた。ここで初めて目の前に座る池口氏が「護摩行の人」であることをぼくは認識した。

 ある程度食べておかないと身体がもたない。さらに朝食を食べていないことが案内員にバレると「美味しくなかったですか?」と心配される。料理人にフィードバックが行く。それは避けないといけない。だから食べた。もぐもぐ。

「お兄さん。せっかくの機会だから、何か先生にお願いでもどうですか」と言われた。突然言われても困る。だってこの瞬間、ぼくは幸せに満ち足りていたのだ。金正恩時代の幕開けの瞬間を平壌で見て、日本人として初めて銀河水管弦楽団の公演も見て、マスゲームも見たのだから。

 池口氏がにこにこと笑っていたことを思い出す。「ありません」というのもむしろ失礼だな。「この世にうらやむものはありません」というのは北朝鮮でよく知られたスローガンだが、これ言っちゃうと滑った時が痛いしなぁ。

 ぼくはしばし思案した。そしてひらめいた。

「お願いがあります!」

 関係者がおお!と期待に満ちた顔をする。池口氏の笑みが増した。

「金本と新井はまだ我慢できるのです。でもうちの石原。タイガースがうちの石原をFAで取るのは何とかやめてもらえませんか。うちの石原が阪神に行くのだけはやめて頂けませんか。扇の要を取られたらカープは崩壊です。それを伝えてください」

 そしてぐっと頭を下げた。

 池口氏は笑っていた。関係者の方も笑っていたが「それかい!」と言いたかったに違いない。けれど、その時ぼくは真剣だったのだ。

 2010年。FA宣言をするか注目されていた石原は結局3年契約を結びカープに残った。それからカープは三連覇を果たし、その中心に石原はいた。そして2020年。引退を決意した。

 石原選手。ファンから時にインチキと呼ばれたトリッキーなプレイと、安定したキャッチングがぼくは大好きでした。お疲れさまでした。

 そして、ちょっとだけ信じている。2010年にカープに石原が残った理由。ほんのちょっぴりした部分。平壌での池口氏へのぼくのお願いが効いたことを。

■ 北のHow to その94 
  平壌のホテルでは朝食をしっかり食べる必要があります。自分のためにも。そして案内員や料理人、ホテルの接待員のためにも。
 健康を心配されたり「美味しくないのか」と色々聞かれます。だからこそ。

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