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『The Best American Short Stories 2022』② パンデミックに襲われたニューヨークの恋人たち アリス・マクダーモット「POST」

前回に続き、『The Best American Short Stories 2022』の収録作品を紹介したいと思います。タイトルどおり、2022年にアメリカで発表された短編小説から選りすぐりのものが収められた1冊です。

ここ数年でもっとも世の中を騒がせたものは? 

もちろん、コロナ禍によるパンデミックである。世界じゅうのほとんどの人がそう答えるのではないだろうか。
だが、この『The Best American Short Stories 2022』のなかで、パンデミックの世界を描いているものはさほど多くない。
たしかに、現実に起きた大事件を小説に落としこむのは難しい。ただ現実の顛末をなぞるだけなら、きちんと取材して書かれたノンフィクションや、当事者の体験記を読んだ方がいい。しかも、数十年経過して歴史的評価が定まった事件ならまだしも、このパンデミックは現在進行形である。下手なことを書けば、後々読むに堪えないズレた小説になる可能性もある。

そんな困難な作業に挑んでいるのが、アリス・マクダーモットの「POST」である。アリス・マクダーモットは、1998年に『チャーミング・ビリー』で全米図書賞を受賞し、そのほかには『愛しあっていたのに』『女性編集者』が翻訳されている。

この「POST」の舞台は、ニューヨークのブルックリン。パンデミックに襲われたカップル、ミラとアダムを描いている。
いや、カップルというよりも、友達以上恋人未満(古っ!)といった方が正しいかもしれない。家が近所なのでなんとなく付き合いはじめたものの、互いに恋心や情熱を抱いているわけではなかった。ふたりともそろそろ潮時かと思っていた。パンデミックまでは。

あれほど輝いていたニューヨークも閉ざされ、静まりかえった街に救急車のサイレンの音だけが響くようになった。ふたりの知り合いの多くもニューヨークから去っていった。

They remained apart through the hellish spring and the long summer and the spiking fall, with only reports from mutual acquaintances that they’d each stayed in town, managing.

自然消滅しつつあったミラとアダムだが、互いがニューヨークに留まっているということは認識していた。
そんななか、ミラがコロナに感染する。焼けつくような喉の痛みに苦しみながらひたすら寝ていると、アダムがあらわれる。ミラの家族に頼まれたのだ。それをきっかけに、ふたりの仲が復活する。もうこの街で頼れる相手はほかにいないのだから。

パンデミック前のふたりは、休日にはユニオンスクエアのフリーマーケットに足を運んだりと、いかにもニューヨーカーらしい暮らしを楽しんでいた。
もともとは、ミラもアダムも夢を抱いてこの街にやってきた。ミラは映像の勉強をして脚本を書いていた。アダムはミュージシャンになりたいと思っていた。
しかし、生計を立てるための仕事に追われていると、いったい自分はニューヨークで何をしているのかわからなくなるときがあった。

She told him it had always been easy enough for her to forget the trivial hours at work――meetings, calls, clients, office intrigue――if, at the end of the day, she encountered a rain-slicked Park Avenue, or a blood-orange sunset down the gentle rise of a cross street.

と、ミラがアダムに語っているように、ニューヨークに訪れる映画のような瞬間を目撃できたら、仕事中のうんざりする時間なんて頭から簡単に消し去ることができた。それだけで満足だった。パンデミックまでは。
だが、封鎖された街でウィルスと戦い、ミラの心のなにかが変わった。

このくだりは、大昔に見た映画『リアリティ・バイツ』を思い出した。夢と現実との狭間でもがく若者たち。かつて映像を作っていたミラと、ビデオカメラを構えるウィノナ・ライダーがだぶったのかもしれない。当時の現実もじゅうぶん苦かったが、それからおよそ30年経って、比喩ではないウィルスすらも現実に入りこんでくるようになった。

下のサイトに作者であるアリス・マクダーモットのインタビューがある。これによると、この短編はキャサリン・アン・ポーターの「Pale Horse, Pale Rider」へのトリビュートとして書かれたものらしい。

キャサリン・アン・ポーターは1930年に発表した短編集『花咲くユダの木』で注目を集めた作家であり、1939年に「Pale Horse, Pale Rider」を発表した。この小説は、スペインかぜと第一次世界大戦に襲われた1918年を舞台として、ミランダとアダムの恋を描いている。こちらのサイトでも解説されている。

最初に、「現実の事件を小説に落としこむのは難しい」と書いたが、スペインかぜの記録があまり残っていないのは、社会全体が病気の忌まわしい記憶をはやく葬り去ろうとしたというのも理由のひとつのようだ。
けれども、「POST」のミラのように罹患した人はもちろん、たとえ自らは罹患していなくても、パンデミックによって自分のなかのなにかが変わった人は多いだろう。

スペインかぜやインフルエンザの経験から、「病むことについて」(あるいは「病気になるということ」)を書いたヴァージニア・ウルフのように、病や病によって感じたものを正面から描こうとするのは女性作家が多い、というのもじっくり考察したくなってきたけれど、今回も『The Best American Short Stories 2022』の1編しか紹介できなかったので、ここまでにしておきます。次回こそは2編以上紹介したい。


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