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Movie:『FAKE』(2016,🇯🇵)(#33)

フランスの哲学者ルネ・デカルトは自身の著書『方法序説』の中で「コギト・エルゴ・スム(我思う、故に我あり)」という有名な言葉を残しました。
私は優秀な経営者であり、良き亭主であり、息子であり、父である云々...本当か?、そう自分自身に問い続けたとき、疑わずに残ったのは「疑っている自分の存在」だった、というものです。
同じように他人に対して疑念が挟まれたとき、ヒトは常にどこまでも疑い続けることが出来るのです。
そのためどこかで折り合いをつけます。
哲学用語ではそれを妥当するといいますが、とにかく「私は優秀な経営者であったり、良き亭主云々である」ということに着地しながら生きています。

では、なぜ妥当する必要があるのでしょうか?

それは妥当しないとどことなく気持ち悪いからです。
これを心理学では認知不協和といいます。

たとえば友人に自分には思いつかない考えだったり、あるいは理解できない考えを持っている男性がいたとします。
その彼を「変わっている」と称すことはないでしょうか。
または「彼は“○○だから”ああいうヤツなんだ」など、要するに何か分からないものに対して納得できる理由を求めたがるのです。
たとえその理由が不完全で、論理の飛躍があろうとも納得したい人にとっては納得することが目的なのです
なぜならそのことで安心が得られるからです。

映画 :『FAKE』とは何が“偽物”かではなく何が“本物”かを問う作品

ところで皆さん、佐村河内守という作曲家について覚えているでしょうか?
聴覚に障害を持ち、「現代のベートーヴェン」と称賛された人物です。
後に影武者がいたということで話題をさらっていきました。
この映画はまさにその疑惑の人物を通常とは逆の側面からアプローチしたドキュメンタリー映画でした。

この映画は彼の証言を信用しつつ確信に迫るという内容でした。
謝罪会見でも厳しい追及をしていたライターのノンフィクション書籍を個人的には読んだこともあります。
ですが、これまでの肩書と実績で内容を盲目的に信じていたとしたら、また違った見え方をしたでしょう。
そこまで考えに至らなかったのは、「極悪人を白日の下に晒す」「幻想が壊れる」というある種のエンターテイメント性を面白いと感じたからかもしれません。

ちなみに、この映画の中ではそのノンフィクションライター、また影武者である作曲家への取材が断られています。
この部分は映画の最後、世の中のイメージと対照的に映し出した「仕掛け」とも思わせる終わり方をします。

ですが、ひとつはっきり言えるのは彼の名の許で出された楽曲がどうだったかです。
あの当時、ホールで一流の交響楽団の演奏を聴いて涙していたり、心揺さぶられた人は相当いたはずです。

彼らは「現代のベートーヴェン」という肩書に泣かされたのでしょうか。

それとも、彼らが流した涙も嘘だったのでしょうか。

その意味において彼は一流のプロデュース力を備えていたのは間違いありません。
それは#30#32で述べたような偽物=なりすましとは似て非なる部分です。

そしてこの映画の最後に、作曲家として「偽」の烙印が押された彼が、一度は捨てたシンセサイザーを再び購入し、作曲を始め、その曲を披露します。
それを聴くなり、本物とは何かを改めて問われるのでした。


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