見出し画像

ジャーナリズムの今後

紙媒体の部数減・活字離れが指摘されて久しい。筆者は既存マスコミ、とりわけ新聞・雑誌の今後に注目する者の一人であるが、今月に入って、衝撃的なニュースが2つあった。

まずは年始に報道された、新聞発行部数の予測。

年々減っていたのは承知していたが、実に衝撃的なデータだ。紙の新聞報道については賛否両論あるが、記者の取材力、長年培われた編集ノウハウ、プロのジャーナリズムは健全な民主主義に必要不可欠だ。

インターネットに活躍の場を移すのなら、今まで以上に英語版が求められる気がする。個人的には紙の一覧性、テーマの網羅性、記事の選別やレイアウトに信頼感があり、残ってほしい。ネットニュースの閲覧は、単発記事になるので全体を見渡せない。相当リテラシーがある読者なら取捨選択できるだろうが、新聞を含めたマスコミを「マスゴミ」などと揶揄している人々が、読みこなせているように思えない。

ネットの単発記事を読んだ読者に対して、その人が好みそうなレコメンドをしてくれる環境に置かれると、自分にとって心地の良い情報摂取に偏りがちな状況になってしまうのではないか。そこに新聞の取捨選択されたレイアウトや、一覧性・網羅性の存在意義がある。基本理念は「中立公正」だ。その役割は、社会に必要な基礎的事実関係の伝達にある。

これを基本に、社説などの主張や記事の取り上げ方において、新聞社によるスタンスの違いが加わる。リベラルなら朝日・毎日・東京、保守なら産経、体制寄りは読売、財務省・経団連・大企業寄りは日経といったように。また、情報の次数を見抜くことや、「発表もの」か「独自取材」か、通信社配信の記事かそうでないかを見分けることも重要だ。それらを踏まえて読みこなすというのが、まずもって社会人としての常識だったはずだ。

こうした常識が失われる背景には、マーケットインの弊害という問題が絡んでいる。例えば出版。個別ニーズに応えるネット販売が主流になって、リアルな書店が窮地に立たされている。書店を歩きながら「こんな本があるんだ」といったようなふとした発見が減った。音楽もそう。ネットの切り売りが主流となる代わりに、レコード・CDで作り手が伝えたかったアルバムの良さ、一貫したコンセプトによる感動が失われた。同じように、記事が切り売りされてもいいのか、ということである。

先述の通り新聞は、長年培われたプロの編集ノウハウで紙面が構成されており、そこには新聞社側が社会的な責務として、ジャーナリズム・報道の担い手として、読者に伝えなければならない基礎的事実関係を、取捨選択して載せている。読者は紙面を一覧した際、その網羅性から、興味のある記事はもちろん、そうでない記事も目にすることによって、新たな気づきや発見があったはずだ。このことが常識や教養を育むことになるのだ。

自分の好きなこと、心地よいことばかりを追求しても、アンバランスで欠落した人間ができあがるだけである。本来は一般常識や教養を身に付けたうえで、ネットや専門書等の特性を弁えながら興味分野を深堀りしていくというのが、正しい情報摂取のあり方であるはずだ。しかし、90年代をピークに、ネットの普及と反比例するかのように活字離れ・紙媒体の低迷が加速して、徐々にこうした常識・教養を軽視する風潮が蔓延するようになったと思う。中には根拠のない誹謗中傷や陰謀論を信奉する向きも出てきた。社会や人間の劣化が指摘される所以ではないのか。

こうしたことを防ぐために、まさに今、メディアの良識が問われているのだ。

米国における新聞の社会的評価は、伝統的に高い。「憲法修正第一条」でフリー・プレスの絶対原則が定められているが、それは建国以来、健全な民主主義には言論の自由による権力のチェックが必要不可欠と考えられてきたからである。ジャーナリズムが立法・行政・司法と並んで「第四の権力」と呼ばれるようになったのは、そのことによる。

日本のジャーナリズムは、明治維新後の近代化の過程で変遷を遂げてきた。草創期には『毎日新聞』の前身である『東京日日新聞』、『朝日新聞』などが次々と創刊され、その多くはやがて自由民権運動と結びついた。これに対して中立の立場から福沢諭吉が創刊した『時事新報』、大衆の興味本位に応える立場から勢力を伸ばした『読売新聞』など、徐々に現代における新聞の源流ができあがった。

しかし、よく知られているように、1930年代以降、軍部が政治的な影響力を持ち始め、言論の自由が抑圧されていった。やがて新聞は、都合の悪い戦況は隠蔽し、大本営発表を垂れ流すだけの存在に成り下がった。結果、陸軍を中心とした独走を許し、壊滅的な敗戦を迎えることになった。戦後ジャーナリズムの客観報道、不偏不党、中立公正といった理念は、基本的にこの反省に立ったものと考えるのが自然だろう。

その後、戦後世代では主に団塊の世代が牽引する形で、活字ジャーナリズムが90年代まで隆盛を極めることになる。この世代より上の世代はもちろんのこと、筆者のような団塊ジュニア世代にとっても、常識・教養の一つとして新聞・雑誌は位置づけられていたし、活字媒体における著名なオピニオンリーダーというのが存在していて、友人・知人と交流する際、外せない著書というのがあった。

では、こうした良識を保つために、ネット時代の新聞はどうあるべきだろうか。

このことを考えるにあたり、朝日新聞が2022年1月21日のオピニオンで「ジャーナリズムの未来」と題し、ワシントン・ポストの前編集主幹マーティン・バロン氏に対する興味深いインタビューを掲載している。

ワシントン・ポストは米有力紙の一つだが、日本の新聞社と同様、経営不振に直面していた。しかし、約8年かけて改革し、電子版の購読者数を増やしたという。ジャーナリズムの基本理念や調査報道の歴史と伝統を変えず、ネットの利便性を活かして全国の読者に訴求し、若い読者を取り込むように変革をした。少子高齢化が進展し、国土が狭くて最初から全国紙が存在する日本とは条件が異なるが、ネット時代の新聞を考えるにあたり、示唆に富むケーススタディを提供してくれている。

2つ目は、次の記事だ。

産経に限らず報じられた、ショッキングなニュースである。雑誌系週刊誌より歴史がある週刊朝日の休刊。かつての朝日ジャーナルが象徴的だったが、雑誌ジャーナリズムの衰退を危惧せざるをえない。週刊誌は文春と新潮以外は元気がない。今回の休刊には、読者層が高齢化していること、既に電子版が存在するAERAと違ってブランディングが浸透しておらず、社内で競合関係にあることからの判断のようだが、ネットで、伝えるべきは伝えるという姿勢が維持できるのか疑問である。

というのも、雑誌ジャーナリズムは、新聞を掘り下げるところに存在意義があるからである。ネットに注力といっても、タイムリーな速報性が求められるのが特徴である。不安定な経営状況の中、時間や労力、予算をかけて深掘りの質を保てるのか。PV稼ぎは「中立公正」といったジャーナリズムの良識が崩れることにならないか。

もっともこの問題は、我々ネット閲覧者の良識や見識によるところも大きい。

雑誌出版社は、先述したワシントン・ポストの変革も参考にしてほしい。単純に比較はできないが、既存の読者離れを起こさず、新しい読者を獲得していく努力は必要だろう。

こうして新聞・雑誌の危機的状況のニュースに触れてみて思うのだが、日本のメディアの場合、冒頭にも少し触れたように、英語圏にも読まれるような記事を増やしていくということが一つの解決策になるのではなかろうか。なぜなら、少子高齢化・人口減少に加えて、紙媒体・活字離れが加速する中、国内日本人向け発信だけに依存していると、質量両面から厳しさが増す一方だと考えるからである。

英語圏向け英字版を発信すればマーケットが広がるので、国内読者のPV稼ぎに走らなくても済む。ネットの利便性を活かせば、国内外の見識のある読者へ向けて発信できるのだ。結果的に良質な海外需給に引っ張られて、国内のジャーナリズム、読者、活字文化も良質さを保てる可能性が高まるのではないか。

もっとも世界の英語圏メディアとの競争にさらされるが、これもまた質の向上につながる。日本発の独自色を出して、差別化を図る道もある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?