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痔除伝 第十一章 前編 Have you ever smelled the Baked asshole?

夜中、最後にスマホの時間を見たのが3:30頃だった。看護師さんに起こされ、検温したのが6:20頃。優しい笑顔で、眠れましたか?と聞かれ、世の中のすべてに裏切られたような、アウトローな男の表情で「いや……」と答える。

看護師さんは、理解を示すような苦笑いを浮かべ、

「急に環境変わると、そうですよねぇ。不安もあるだろうし……」

と、同意してくれたが、心の中で、「そういうことじゃねぇんだよ!」と叫んだ。

2パック目のアルジネードウォーターを飲み干し、再び座薬を入れる。もう、前回のような情けない真似はできない。少しでも腸内に座薬を留めておかなくてはならないと強く決意し、深めに座薬をぶち込んだ。

しかし、やはり15分もすると急激な便意に襲われる。「お腹が痛い」というよりも、「気を抜くと肛門から自動で何かが出てきそう」という、it's automaticな感じだ。7回目の便意でようやくトイレに向かう。

覇王たるもの、トイレに駆け込むなどといった焦りのアピールをしてはならない。あくまで余裕を持ちつつ、歩みを進めねばならない。

たかが50m程度の距離だが、数倍以上の距離に感じる。トイレに着き、「もう、辛抱たまらん!」と、立てこもり現場に侵入するFBIばりにドアを蹴破ろうとしたところ、すべての個室が埋まっていることに気づいた。個室の数は2つ。

ドラマの伏線回収のように、昨日のオリエンテーションを思い出す。

今日、同じような時間に同じような手術をする人が、私を含めて少なくとも3人。座薬を入れる時間も、同じ頃だろう。それなのに、トイレの個室は2つ。

……ハメられた。これは、3人のうち2人しか生き残れないデスゲームだったのだ。求められていたのは我慢強さではない。己との戦いではなく、座薬を入れたもの同士の心理戦や情報戦の類だったのだ。

今頃、看護師達は狼狽している私をモニター越しに見て高笑いをしていることだろう。

半沢直樹の敵役のように奥歯と怒りを噛み締める私。怒りの表情を浮かべながら、何か方法はないかあたりを見回す。どう考えても解決策は小便器にぶちまけるしかない……。

切羽詰まって、IQが15くらいになっている私に、突然気付きの稲妻が駆け巡った。

私が入院しているのは、西病棟。東病棟にもトイレはあるはずなのだ。

このまま待っていても、ただ死を待つだけである。距離は、100mといったところ。今すぐ漏れそうな私の体感で、丁度新宿-渋谷間の距離くらいである。

もし、そこまで行っても埋まっていたら、その時こそもう死ぬしかない。歩く刺激を考えると、この場でステイしたほうがいい可能性もある。

(賭けてみるか……)

私は、遥か遠くの東病棟へと旅に出る決意をした。

電流イライラ棒をコントロールするようなスピードと繊細さで東病棟に向う。体を不必要に上下させず、直腸に垂直なエネルギーが働かないよう、膝のクッションを最大限に活かして頭の位置と体幹を固定して前に進む。

まさに能のすり足の動きである。表情は般若の面。途中、すれ違いざまに私の動きと表情を見た老齢の患者が、あまりの恐怖で2、3人ほど死んだけれど、そんなことにいちいちかまっていられない。

長い旅を終え、シルクロードの終着地に到着。トイレのスペースにつくや否や、個室に入る前にズボンと下着を下ろし、鍵を閉めると同時に便座にシットダウン。なんとかギリギリ間に合った。

陶器の便器には巨大な隕石が落ち、頭の中ではエアロスミスの『I don't want to miss a thing』が流れた。アルマゲドンは回避されたのである。


自室に戻り、しばらくすると看護師さんがやってきて、白く、長いハイソックスのようなものを渡してくれた。

昨日説明を受けていたが、術後、一日中寝たきりになっているため、これを履くことで足に血栓ができるのを防いでくれるという。逆に履かないと、所謂「エコノミー症候群」になる可能性があるという。

見た目は、少々キツめの真っ白なハイソックスで、足先の一部分だけ直径5センチくらいの穴が開いている。看護師さんは、

「この穴のところにボシキュウが出るようにしてくださいね」

と言って、立ち去った。

履いてみると、思ったより長い。ふくらはぎ全体を覆う程長く、膝下まであり、何より締め付けが強い。履くのにも少々苦労した。

さて、ボシキュウである。ボシキュウ、と突然言われて、どこの部分だかわかるだろうか。もちろん、足にある部分なのだろう。穴の位置から、爪先に近い部分ということはわかる。しかし、その正確な場所は、正直に言って分からなかった。

ボシキュウ。おそらく、母指球、と書くのではないだろうか。そう考えると、自ずと答えは見えてくる。母指とは、まず間違いなくお母さん指のことであろう。お母さん指、つまり人差し指である。

その穴に足の人差し指だけ出したが、どうも靴下の形状や、穴の余り具合が、不正解と告げている。確かに、足の人差し指だけ出す、というのもおかしな感じがする。

母指とは、恐らく人差し指で間違い無いだろうが、そうなってくると、球の部分が説明できないと気づいた。球。足に、球はない。九、のはずもない。

反対側の足を眺めつつ、思慮を巡らせた私の脳に、気付きの稲妻が駆け巡った。

「親指って、なんだか丸っこい!」

もしかしたら、手の親指はお父さん指だけれど、足の親指はお母さん指なのかもしれない。目に映りやすい手の親指は、誰が見てもわかりやすくその他の指を支える父親。

一方で、目に見えない内側で全体のバランスを支える足の親指は、まるで母親の持つ力強さと優しさ。それはまさに内助の功。

私は、早速足の親指を穴から出した。とても収まりが良く、これで間違い無いだろうと確かな手応えを感じていた。

しばらく本を読んで待っていると、オペの時間を告げに看護師がやってきた。10時過ぎに呼びに来るから、それまでに準備をしてほしいということらしい。そして、靴下は履けましたか?とチェックされ、自慢げに足を差し出す。看護師さんは、

「あ、ズレちゃってますね。結構ズレがちなんですよ」

と、調整してくれた。ボシキュウとは、どうも足の親指の付け根の、膨らんだ部分を指すようだ。そういえば、外反母趾ってこの辺りのことだよなと、その時に気づいた。母指ではなく、母趾。初手からつまづいていたのである。


しばらく本を読み、もうすぐで手術の時間。アヌスの悩みとも、これでおさらばになる。痔瘻を患って、良かったことなど一つもない。

それでも、何かやり残したことは無いかな、手術前に思い残すことは無いか考えた。ふと、GLAYのコピーバンドでライブをやり、メンバー紹介の時に「ベースの痔瘻です」という、天才的な一発ギャグを思いついたが、それができる機会を逃してしまうことに少しだけ後悔を覚えた。


時間になり、貴重品をロッカーに入れて鍵を閉める。看護師さんが迎えに来て、いよいよオペ室に向かう。

オペ室手前の更衣室で、手術着に着替えるよう指示される。私が着るのはワンピースタイプの手術着と呼ばれるものらしい。先ほど履いた靴下以外、メガネも含めて下着類は一切着用不可。

脱いだものとロッカーの鍵は看護師さんに渡し、手術後に返されるらしい。私は更衣室で靴下以外の全ての着衣を脱いだ。おじさんの全裸&ハイソックスである。

早速ワンピースタイプの手術着を着る。袖が一切ない。浴衣のように左の脇腹の紐を結び、続いてうなじ部分の紐を結ぶ。手術のため、背中部分はパッかりと開いて、布が無い。早い話、布面積が若干多めの裸エプロンである。

最後に、髪の毛が落ちないよう、シャワーキャップのようなもので頭を包んで、完成だ。


正面から見ると、まさにノースリーブのワンピース。丈がとても短く、裾は大体太腿の辺りまでとなっており、膝下からは白いハイソックスが爽やかさを演出している。

ここまでは昔のアイドルを思わせるようなコーディネートだが、中身が筋トレをしているおじさんなのだ。袖がない為、肩部分からは妙にゴツい腕が二本伸びており、選んだスリッパのサイズが小さく、スリッパから足が1/3程度はみ出している。ファッションチェック風にいうと、

今日のポイントは背中部分!前から見ると一見清楚なワンピーススタイルなのに対して、後ろから見ると、背中とケツが丸出しという、海外セレブのパーティスタイルのさらに上をいくセクシーさ!
ちょっと足を広げただけで、玉の後ろ側までバッチリ見えちゃうハラハラ系モード!前から見たらキュート、後ろから見たらセクシーの二段構え!
飛天御剣流の抜刀術は、いつだって隙を生じぬ二段構えなんだから!セクシーなのとキュートなの、どっちが好きなのかわからない彼も確実に仕留める欲張りコーデに、松浦亜弥も嫉妬間違いなし!
白のハイソックスが清楚さと幼さを演出して、いろんな要素がてんこ盛り!属性おばけ!
頭には、伸びきった髪全てを包み込むため、パンパンに膨らんだシャワーキャップをかぶせたら、ドン小西もケツまくって逃げ出すコーディネートが完成!
今ならファッションで人を殺せると思う。


着替えが終わり、誘導してくれた看護師さんからファッションの乱れを調整してもらった後、ドラマでよく見る「オペ室の格好をした看護師」に引き渡される。のちに調べたところ、「手術室看護師(通称オペナース)」というらしい。明らかに病棟の看護師とまとっている雰囲気が違う。

たしかに、オペ室手前の更衣室に入った時から、漂っている緊張感に違いがあるように感じていた。部屋の明度からして違う気がする。

看護師さんの雰囲気、言葉遣いも、病棟の看護師さんは親しみや安心感を感じさせる対応なのに対し、オペナースの方は機敏さと緊張感を感じさせる対応だった様に思う。

勿論、たまたま対応してくれた人の個性なのかも知れない。しかし、それによって、私の緊張感は途端にマックスを振り切った。

待合室に誘導され、椅子に座るよう指示される。CDプレーヤーからリラクゼーションミュージックのような音楽が流れているが、壊れかけているのか、音質がガッサガサである。

なんだか、人類、文明が滅んだ世界で、人知れず延々と流れ続けているリラクゼーションミュージックのように聴こえ、余計に怖い。

もう、私の鼓動はファーストキッスの時よりも高鳴っていた。落ち着きを取り戻すため、すべての息を吐き出すように深呼吸をする。自分の深呼吸の臭さで多少落ち着きを取り戻し、その後すぐに血圧を測られる。

落ち着きを取り戻したはずが、普段の高い時の血圧よりも、さらに30以上高かった。何を隠そう、私はメンタルの変動がもろに体に出るタイプなのである。これにはオペナースも苦笑いを隠せない。

オペ中は点滴が必要になるようで、点滴のために腕を差し出すが、元々血管が出にくい私。緊張も相待って、一切の血管が引っ込んでしまい、どこからも血管がとれない。

普段は肘の内側なら割とすぐ血管が取れるのだが、麻酔を打った後に何度か寝返りをしなくてはならない関係で、手首より先に点滴をしなくてはならないらしい。オペナースの方も焦っている。この日、オペの件数も多かったようで、なにやら慌ただしい様子だった。

すると、血管探しがタイムリミットを迎え、次の患者が来てしまったようだ。少し待っていてください、と私に告げ、オペナースさんは別場所に向かった。

私はその間に少しでも血管が出やすいようにと、左腕をだらっと垂らし、手のひらの開閉を繰り返す。少しでも血管を浮かせるために、もっと腕を下げようと、大股を開き、背中をかがめ、前傾姿勢になる。

ふと股間部分に目をやったところ、超ミニなワンピースの裾から私のPENNY KがJoy Tripしていた。ミニワンピ、ハイソックス、PENNY Kのコラボは、とても犯罪的な見た目をしていた。


しばらくしてオペナースが戻ってきた。血管探しを再開するも、再びタイムオーバーを迎える。そこへ、とてもスレンダーで目元がキリッとした、40代手前と思われるオペナースがやってきた。

女優の「りょう」や、「深津絵里」のような、強さと涼しさを兼ね備えたような雰囲気の人だった。どこか、「主任」っぽい雰囲気がある。

最初のオペナースと「主任っぽいオペナース」で点滴が出来ていないことを確認し、オペ室でやるしか無いね、との結論に至った。

私は「何かが一つでもうまく進んでいない、自分のせいで想定と違うことが起きている」という事実に、また血圧が20くらい上がるのを感じた。

オペ室に向かうまでの間、麻酔を打ってからの流れなどの説明を受けるも、全く頭に入らない。普段なら簡単に覚えられそうな流れでも、緊張、恐怖、興奮で、精神状態が正常では無いと自分でも分かり、そのため、手順を覚えようとしても全く覚えられないのだ。大事なことなのに、全く頭に入らないことが、更に不安を呼ぶ。

痛かったらどうしよう、麻酔が効かなかったらどうしよう、麻酔の位置がずれたらどうしよう、手術に失敗したらどうしよう、麻酔が抜けなかったらどうしよう……。

今まで考えもしなかった沢山の「もし、たられば」が、急に頭を埋め尽くす。似ている有名人に、「スターウォーズのチューバッカ」をよく挙げられるほど野性味のある私が恐怖で震えている様は、さぞ面白く、情けなく映っているのだろうと思う。

たかが痔瘻手術。たかが下半身麻酔と、自分でも思う。しかし、なぜだかとても怖い。


時間になり、主任の合図とともにオペ室に向かう。鼓動が、今までにないくらいに早くなる。このままオペ室に着くまで5分くらい時間をかけて欲しいと思った。

しかし、思いと反してすぐに主任の足が止まり、大きな扉が開いて、オペ室に着いてしまった。


つづく


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