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おばあちゃんの記憶の記録

おばあちゃんは、部屋のものがなくなるとわたしに必ず電話をしてくる。数年前、いや10年近く前から、軽度の認知症は始まっていて、急激な悪化はないものの、おばあちゃんの世界では、部屋のものがよくなくなり、部屋には度々泥棒が入っている。

「そんなの思い込みだよ、泥棒なんて入ってないよ、その家に盗むものなんてないよ」こんな気休めの言葉は、最初から通用したことがない。おばあちゃんの電話には、色んな想いがある。

人と話したいこと、寂しさ、じぶんが頑張って生きてきた証明、死への恐怖、残された家族たちへの不安。全部が痛いほど伝わる電話は、またものがなくなったという会話に置き換えられて、遠く離れたわたしの耳に届く。

長らく人のために人生を費やしたおばあちゃんには、わたしの人生の重みと功績を流行りのカタカナを使って説明しなくとも、伝わっているのだと思う。わたしがどんな仕事をしているか、具体的には話したことはない。

東京ということは関係ない。生きていくことは大変で、仕事ばかりをしてしまうことも仕方なく、結婚が全てではないことを理解している。それでいて、ひとり分のご飯が食べられて、少しの贅沢と、人への優しさと人からの温かさがあれば生きていけることも、伝えてくれているように思う。

おばあちゃんのものがなくなっても、血の繋がった、歳の離れた孫が話を聞けば、もしそれによって問題が起きても「大丈夫だよ、わたしがなんとかする」そう言ってあげれば、毎回落ち着きを取り戻す。わたしはこれからも、おばあちゃんの話を、出来る限りの時間きこうと思う。


この世に絶望するくらいなら考えるのをやめて自分を愛せ