めげずくじけずダンディズム
上京したてのころ、最寄りの駅前にある某アメリカ産チェーンのバーガー店によく通っていた。地理か英語かの教科書でしか見たことなかったハンバーガーが百円(当時)で、これが大東京かとお上りさんの目には輝いて見えた。それで腹を満たして9時からの一限に出るのがスタイリッシュでオシャンティに思えていた。バカである。
数年後、なんの帰りだったかは覚えていないが、ある深夜にも立ち寄った。客も店員もまばらな中、注文してボーッと待っていると、奥から出来上がったバーガーひとつが二三歩の幅の調理台を滑ってきた。「ファスト」の名に恥じぬようと心がけたマニュアルどおりだろう。
初見でもないはずが、不快だった。酔ってはいなかった。一人席でしわくちゃのバンズを食みながら「もう二度と」と決めた。それきりファストフード全体から足が遠のいている。
祖父母が農家だったからか、そうやって食物をぞんざいに扱う作法には嫌悪を覚えてならない。「いただく」のこころ知らずして食品ロスばかりの星条旗フードなど、いくら食文化こそ多様性だと言われてもクソ食らえだ。「ミソもクソも一緒にするな」って英語でなんて言うんだろう──
最寄駅は変わらないから、今も折につけてそのバーガー店の前を通る。ガラス一枚を隔てただけの一人席で、誰かが咀嚼し、啜り、嚥下するのを毎日のように見かける。昨日はめかしこんだ女子学生のカスまみれの口蓋が、今日は前ボタンを開けるたしなみもない中年背広のムシャムシャ貪る黒ずんだ歯が、視界の端を通り過ぎた。
異物と粘膜が交渉する「穴」は恥部のはずだ。摂取と排泄は表裏一体、これを衆目にあえて晒すことを日本語では「(お)下劣」という。「食」が「色」に通ずるように、欲望の充足を見せ物として平然たる「ファスト」は「ポルノ」と等しい。あの大きなガラス窓は他人の猥褻物を公然と映し出している、そしてそれを許容してもいる、一種のメディアである。
遠のいたままの足を戻さないのは、そこに文化のデカダンスが見えるからだ。「安かろう悪かろう」で食品添加物への不信感とかショート/トールにグランデ/ヴェンティを並べてしまうダサい言葉づかいへの反感とかもあれど、なにより窃視と露出にあまり関心がない。いまだ視覚特化型SNSに近寄れない理由に似ているのかもしれない。
昔から講義中や電車内で居眠りできる人が信じられなかった。退屈な授業なんてゴマンとあったし睡眠はいつだって足りていなかったが、「眠る」という選択肢はなかった。おのが欲望充足を公私の境なく晒すなんて恥ずかしいという思いが強かった。
恥ずかしいというか、なんというか、居心地が悪いのだ。
十年ほど前、南アジア最貧国で市場に迷い込んだことがあった。着古され黒ずんだぶかぶかのジジ臭いポロシャツ一枚きりで駆けまわる子供らを眺めていたら、大粒の茘枝を押し売りに来た中年男性に「去年あなたの国から送られてきた、助かっている」と片言英語でおだてるように囁かれた、あのときの感じに似ている。
「やめてくれ!」
心の中で叫びながらなけなしのあり金はたいて茘枝を買い占め、夜に腹を下した。それ以来ポロシャツは着ていない。茘枝は食べる。
今バーガー店には「月見」の幟がでかでか立っている。昔はレギュラーメニューだったような気がするが、いまや季節物にまで成り上がったらしい。
さっき飛び込もうか大いに迷った。ワンコインで万年欠乏ぎみの動物性タンパクが摂れるし、軽度の栄養失調の兆しだろう指のささくれも少しはマシになるだろう。なにせ腹が減っていた。
できぬ、できぬ。回れ右して帰った。
秋の七草も知らぬ世の、スマホなければ盈虚も知らぬ世の、「立待月」より「ストロベリームーン」なんてアメリカ語をありがたがる詩藻もへったくれもない世のならいなんて、できぬ、いやだ──
かくも文学部卒の末路である。いや、「田舎学問より京の昼寝」を信じて出奔してきた夢見がちな小童が、文学なんて芸術なんて身のほど知らずの虚像に誑かされつづけて、才なき徒手でいたずらに万巻を渉猟するうち地に足つけられぬまま年だけとってしまった、成れの果てだ。
窓際の一席で白身魚のフライを挟んだバーガーに感激していた無垢はとうに失せている。ならば間近に迫る四十の路とてこの頑迷を胸に独歩するしかあるまい。このまま醜悪無惨な老害になってしまいそうなら潔く首をくくるとして、さてどこまで生けるやら。
これだから学問なんて腹の足しにもなりゃしない。
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