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愛され続ける名作。〜アラジンの世界を映画&舞台で感じる〜

先日、劇団四季のアラジンを鑑賞しました。
舞台役者さんの歌声、パフォーマンス、
会場の盛り上がり、全てが最高でした。

アラジンは昔からアニメ、実写、舞台と時代を越えて世界中の人々に愛され続けてきた作品。

これを機にそれぞれの作品を見返し感じたこと、それぞれの形ならではの魅力についてnoteに書いてみようと思います。

それぞれの形に触れてみて

劇団四季のアラジンに心動かされ、アニメ版、実写版の映画もこの機会に見返してみようと考えました。

実際に見返して見ると、大筋はどの形でもさほど差はありませんが
その細部の演出の違い、独自に登場するキャラクターなどの違いから、
アラジンとジャスミンがどんな人間であるかの表現が少しずつ変わってきているようにも感じました。

作品全体の相違点とアラジンとジャスミンがどんな人間であるか、この点に絞って感じた事を書いてみます。

※アニメ、実写、劇団四季とそれぞれの内容に言及していきます。ネタバレを含みますのでご注意ください。

アニメ版:アラジンとジャスミン

1992年公開。
世界中で愛される、すべての原点であるアニメ版。

街で生きる為に盗みをはたらくアラジン。
けれど、彼は悪人ではなく食べ物に困っている街の子供を見かければ、そっと自らの食べ物を手渡す心優しき青年。

彼自身、決して余裕のある暮らしではないけれど、街の困っている人や危険な誰かを率先して助ける姿など、その人物像は数多く描かれ、まさに”ダイヤの原石”に恥じない人物でした。

一方のジャスミンは宮殿の中で育ち、その閉塞感や自分を品物のように扱われることに不満を持って登場します。
その点は自由奔放なアラジンと対照的ではありますが、
ある時に彼女自ら”世界を見る必要がある”と行って宮殿を抜け出します。
そこで彼女は街の人々の生活に触れ、アラジンと出会うことに。

アニメ版のジャスミンは非常に行動力とバイタリティのある人物として描写されていたように感じます。
それは自ら宮殿の塀を越えたり、アラジンの演技に機転を利かせ即興で応えること、物語終盤では皆を匿う為にジャファーにキスをし注意を引きつけるなど彼女の行動一つ一つには強さを感じさせる場面が際立って見れます。

アラジンとジャスミン。
その強みや個性は違えど
思いがけず共通していた点は、
友人は周りにおらず1人でいるという点。

共にアブーやラジャーといった動物の仲間、大切な存在はいても、2人にとって心を通わせる友人の位置付けとはまた異なる存在のようでもありました。

そんな2人が出会う。
共に抱えていた孤独や閉塞感、それらを2人で抜け出していく姿、惹かれあっていく姿に視聴者は共感を生み、
これだけ長く愛されている作品となったのではないでしょうか。

実写版:より深掘りされた世界観

2019年に公開された実写映画版。
こちらの物語もアニメ版と大筋こそ変わらないものの、
新たなキャラクターとしてジャスミンの侍女ダリアが登場したり、
ジャスミンが次の国王になるなどの変更点があり、ジャスミン視点の物語はアニメ版と様々な点で違いを見ることができます。

また、全般的にアニメ版より物語の背景にある世界観が深掘って表現されており、
アラジンについても両親は幼い頃に亡くなっていたことや判明します。
ジャスミンの母親も殺されてしまったこと、その為にジャスミンは宮殿の外へ出ることが許されない、他には隣国との同盟関係、ジャファーが元々は盗賊で大いなる野望のために成り上がってきたことなどがアニメ版の設定に追加して描かれていました。

映像表現もさることながら、こうした世界観の細かな描写が実写版の世界に深みを持たせ、おとぎ話ではなくよりリアリティのある物語として生まれ変わっていった印象を受けました。


実写版:アラジンという人間

またアラジンの”ダイヤの原石”という人物像もアニメ版のエッセンスに追加で表現がされていました。

それはアブーがジャスミンの腕輪を盗み、呆れたジャスミンが宮殿へ去っていってしまうシーン。

アラジンは盗みをはたらくが盗んではいけないものもあることを理解しています。

そして、そのことをアブーへ伝えます。

街で出会った女性の腕輪。それは彼女の母親の形見であったと知り、これは彼女に返さなくてはならないとアラジンは言います。

物としての価値以上に、その人にとって大切な物がある。

貧しい世界、日頃生きるために物を盗むアラジンではありますが、人間として大切なこと、気高さを彼は持っていました。
その後、そんな彼女の大切な腕輪を返す為に、アラジンはもう一度彼女の元へ向かいます。

貧しさの中でも腐らず、本当に大切なことをわかっている、そんな立ち振る舞いが彼の”ダイヤの原石”としての説得力、アラジンの魅力をより一層強調して描かれていたようにも思います。


実写版:ジャスミンの成長

実写版ジャスミンはアニメ版と見比べるとアニメで描かれていたアクティブで強気な女性像とは少々異なった描かれ方になっているようにも感じます。

冒頭の市場のシーンを比較すると、
アニメ版ではアラジンの隠れ家に案内される際に自ら木の棒で飛んでいきアラジンを驚かせます。

実写版では追われる中、ギリギリまで飛べずにいるジャスミン。
そしてアラジンの「僕を信じて」の言葉を受けてはじめて飛んでいきます。

アニメ版のジャスミンが「凛とした強さ」を物語開始時点から持っているとすれば、実写版ではその「凛とした強さ」を物語の中の"成長"によって手に入れていくような印象を受けます。


なぜアニメと実写でジャスミンに違いが生まれるのか?
それはもしかすると、侍女ダリアの存在によるのかもしれません。

ダリアの存在がジャスミンを年相応の少女に戻してくれる。
その一方で王女の側で常に彼女を見守っている。
そんな公私共にそばに居てくれる人の存在が、アニメ版よりも柔らかな、けれども芯の強さを持つ人間へと成長させてくれているのではないでしょうか。

作中でもジャスミンとダリアはパーティーの場や自室でのやり取りなど侍女と王女を超えた女子会的な会話をしていることも多く、微笑ましくシーンがいくつもあります。
アニメ版では悩みを打ち明ける存在もいなかったのに対し、
実写版ではダリアという気心知れた存在がいることである程度成熟した落ち着きのある人間となったのかもしれません。

最終的に国王が次の王をジャスミンとするのは、
そんなジャスミンの国民を思う姿、ジャファーに捕らわれながらも心の声を叫ぶ姿などアニメ版とは異なる形で見せた彼女の強さに起因するのかもしれません。

単純に女性の王を認める、という話ではなく"ジャスミン自身が王として国を導けるか"、それだけの力を持つ人物に成長したことを確信したからこそ国王は次の王座を彼女に託したのではないか、そんなことを思います。

劇団四季:描かれる世界観

2015年から日本での公演が始まり、その人気から2021年現在までロングラン公演となっている劇団四季版。

まずは個人の感想を述べさせていただくと、とても…とても素晴らしかった!!

役者さんそのものの魅力、アラジンとジャスミンの掛け合いと2人で歌うシーン。
ジーニーの登場により会場のボルテージが高まる感覚、そして幻想的なホールニューワールド。

どこを切り取っても、どのシーンを思い返しても多幸感に包まれる、そんな贅沢で幸せな時間でした。

ミュージカルの舞台ということもあり、映画の上記2バージョンよりも楽曲数が圧倒的に増えていたり、
ジーニーがランプから初めて登場するシーンはまるでマジックショーのような演出だったり、
作風も全体的にコミカルになっていて笑えるシーンが多いなど舞台だけの、舞台でしかできない独自要素もふんだんに盛り込まれていました。

自分のすぐ目の前にキャラクターたちが生きている感覚は、アニメとも実写映画とも違った臨場感があり会場全体でアラジンという作品を創っている、体感しているような気にさせてくれます。


個人的にグッときたのはホールニューワールドの演出。

アラジンを象徴する名シーン。
空飛ぶ絨毯はどのように表現されるのか、事前情報は特に入れていなかった自分にとっては舞台での表現が全くの未知数な世界でした。

最初はセットの陰に隠れてアラジンがジャスミンへ手を差し出す。
その時に自分は「あぁ、うまいこと誤魔化しながらやるのかな」と思っていましたが、
その隠されていたセットが左右に開いていき、絨毯に乗ったアラジンとジャスミンが現れます。

そして...ゆっくりと、絨毯が宙を舞い、アラジンとジャスミンが夜空を駆けていく。

周りは夜の闇に包まれ、星々が輝き出す。
舞台で照らされるのはアラジンとジャスミンの2人だけ。

会場中がその輝きと美しさに引き込まれていく、2人だけの世界。

本当に飛んでる!
どうやって飛んでるの?!
純粋に美しさに心奪われ、今目の前に映る現実に驚き、胸が高まっていく。
まさに夢のような時間でした。

この感動はぜひ、舞台で体験してもらいたい。
自分も何度でも見にいきたい、素晴らしい体験ができた時間でした。

全作品:ジャスミンはいつ彼の正体に気づいたのか?

ここまで、映画版2作の差異と舞台の魅力について書いてきましたが、最後にもう1点だけ考えたいテーマがあります。

それはジャスミンがいつアリ王子=アラジンと気付いたのか。

どの作品を通しても、決定的に見えるシーン。
空飛ぶ絨毯に乗る前、手を差し出し「僕を信じて」と言うセリフ。

しかしながら実はこの時点では、まだアリ王子=アラジンという確信はなく、純粋にアリ王子という人間の手を取ったのではないか。
そんな解釈も出来るのかな、と感じました。

まず、アニメ版。
物語冒頭、市場でアラジンがリンゴを肩に伝わせてパスする仕草。
これがホールニューワールドの後半、リンゴを手に取り同じ仕草でジャスミンに手渡しています。

このリンゴのパスを受けた時にジャスミンは驚きと確信をしたような表情をみせ、隣にいる彼と手を繋いでいく。
このシーンだけを切り取るとこの仕草で気付いた、と捉えることも出来そうです。

次に実写版。
ホールニューワールドが終わり、2人で街の人々を眺めるシーンがあります。
その時、アラジンはジャスミンの前髪を耳にかける。
その仕草は前述した腕輪を返しにいくシーンでも同じようにそっとジャスミンに触れる。
実写版ではこの仕草でジャスミンは彼の事を察したのかもしれません。


最後に劇団四季。
「僕を信じて」のセリフの後には「なぜだかわからないけれど、信じるわ」と言うセリフがあります。
まだ確信はないけれど彼の事を信じれる、そんな彼女の気持ちが表現されているのではないでしょうか。


つまり、それぞれの作品では手を差し伸べられた時点でジャスミンは手を取る人物がアラジンという認識はなく、
どこかアラジンの面影も感じさせるアリ王子という人間の手を取ったのではないか。
そんな見え方も出来そうです。

そして2人の時間を重ねる中で、やはり市場で出会った彼であると理解していったのではないでしょうか。


この辺りは想像の余地があり、ジャスミンの心情を想像しながら見ていくのも面白いかもしれません。


また、アリ王子という人間を切り取って見ても興味深い。

アニメ版でアリ王子はジャスミンの境遇に作中で初めて共感を示した人物でもあった。

「皆が君の事を品物みたいに扱っている、結婚を決めるのは君なのにね」

この言葉を通して、ジャスミンはアリ王子に向けてた視線や感情が変わっていく。

それは市場で出会ったアラジンか別人かは関係なく、純粋にジャスミンに共感してくれる人を選んだ、そんな解釈もできそうです。

一方、実写版のジーニーはアラジンにこんな話もしています。
「ジーニーの魔法は外面をちょいと飾るだけなんだ。だからそのうち本当の自分が中から輝き出す」
そしてジャスミンは見事ジーニーが飾った姿の奥にある本当のアラジンに気付いた。

仕草や振る舞いだけでなく、飾られた奥にある、本当の姿を見る事ができた。
輝きを放つ人、輝きを捉える人。


魅力的な2人が居るから、このアラジンワールドは美しく現在まで長く愛されているのかもしれません。

劇団四季版ではホールニューワールドの後、こんなセリフがある。

夜空を見上げ、綺麗だとつぶやくジャスミン。
そんな姿をみたアラジンはジャスミンの事を真っ直ぐ見据えこう話す。

「でも今僕が見つめる景色の方が美しい。」

照れ臭さも恥ずかしげもなく、思いをまっすぐ届けること。
ストレートに自分の好意、想いを伝えられる所も彼がダイヤの原石と呼ばれる所以だろう。

真っ直ぐに伝える事。
それはとてもシンプルだけど、
大切なことなのだと思う。


この胸いっぱいの気持ちを誰に贈ればいいだろうか。
また何度でも出会いたい。
このままステキな世界を、いつまでも...

ライ

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